(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

議論の結果を得たい人・ただ議論がしたい人

議論をする目的には大きく分けて二つあるわけで。

「今日、何食べたい?」
「んー、何でもいいよ。」
「カレーでいい?」
「うーん、カレーはちょっと・・・」
「(何でもいいって言ったじゃん)」

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こういうよくある話を例に出されると、余計にその思いを強くするわけです。

議論の結果を得たい人

結論を出すための議論。先ほどの例で言えば、今日何を食べるかの結論を得たい。だから議論をするわけですな。議論の結果、何かを得る。得ることが目的であり、議論は手段です。
この場合、議論で行うことは基本的に「前提の共有」となります。

「んー、何でもいいよ。」

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何でもいい。この答えを聞いた人は、通常は「全ておk」と受け取りますね。「いい」の対象は「何でも」。つまり「all」であり「全て」であると。

「うーん、カレーはちょっと・・・」

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しかしカレーはダメ。

「(何でもいいって言ったじゃん)」

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「全ておk」と解釈した人にとっては、先ほどの答えが覆されるようで、微妙な失望感になることがままあります。
とはいえ、このやりとりは前提の共有という視点で考えると、非常に有益なのですね。お互いが勝手にそれぞれ考えていた前提のすり合わせになっている。
聞き手をA、受け手をBとすると、このやりとりで以下のことがわかったわけです。

  • Aは「何でもいいよ」の「何でも」を全てと受け取った
  • Bにとっての「何でもいいよ」の「何でも」は全てではない
  • Bの「何でもいいよ」には例外がある
  • その例外のひとつがカレーである

で、この際に「『何でもいいよ』の『何でも』は通常『全て』と解釈するよね」という一般論とか、世間の多数決とか、世間とか常識はあまり意味をなしません。大事なのは議論参加者にとっての前提であって、言葉として間違っていようが、正義とか真理に反していようが、関係ない。
「何でもいいよ」と言われたら、文字通り「何でもいい」と受け取るのが自然で、「オールオッケー」となるのが普通かと思いますが、「カレーはちょっと」と言われた以上は、カレーはダメなのです。「オールオッケー」ではないのです。
言葉の一般的な解釈には反しても、「カレーはダメ」という新たな前提を導いた。これはこれで議論としては有益なんです。食べる対象の選択肢を狭めたわけですから。一歩前進。議論って、こういう「一歩前進」の積み重ねなのですね。
この後に続くであろう議論も、基本的には新たな前提を導き、食べる対象物の選択肢を狭めていく作業になります。その際には「何故カレーはダメなのか」を探り、ある前提の隠れたさらなる前提を共有することが有効です。

辛いものが苦手だから

カレーだけではなく、タイ料理とか韓国料理とか、辛い料理全般が候補から外れますね。
また、「辛くないカレーなら大丈夫」という例外を導けるかもしれません。

昨日カレーを食べたから

今日はたまたま「何でもいいよ」の「何でも」にカレーは含まれないが、他の日なら大丈夫なのかも。

もっと安いものを食べたい

懐具合が心配。しかしこの場合も「安いカレーなら」という例外を導けますよね。
と、このように議論は、前提をなるたけ共有し、話の範囲を狭めていくことで、結論をより得やすくする作業なわけですね。

「(何でもいいって言ったじゃん)」

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と失望してはいかんのです。むしろ、
「何でもいいって言ったけど、実際はそうじゃないよね?」
と口に出して確認すべきものなんです。
「他に嫌なのある?」
ってな感じの流れをつくるのが議論上手であり、議論思考。前提ができたことを誉れとする文化が議論には必要です。

ただ議論がしたい人

一方、議論の結果を求めていない場合もあります。議論は手段ではなく目的。言葉のコミュニケーションをしたい。特に男女間の会話でよくあるケースですね。要はイチャイチャしたいだけ。
「カレーはどう?」「麺類は?」「それとも肉がいい?」「魚はどうかな?」と聞かれたいだけとか、自分が食べたいと思っているのを当てて欲しいとか、いろいろ候補をあげてくる相手の必死さを見たいとか、まあ動機はいろいろありますが、このどれも今日何を食べるかの結論を得たいわけではなく、今日何を食べるかの議論を通じてコミュニケーションを取りたいだけなのであります。
こちらのケースだと、前提を共有したいわけではないので、話を狭めていくことに苦痛を感じる人がいます。話が窮屈になるから。結論を導くための議論ではなく、コミュニケーションの形態としての議論がいいわけなんでね。
そのため、結論を求めるための議論者と、コミュニケーションを求める議論者の間で、微妙な空気が流れることがあります。結論議論者にとっては、コミュニケーション議論者が前提の共有を阻害する非協力者に見える。またコミュニケーション議論者にとっては、結論議論者がコミュニケーションしようとしない冷たい人間に見える。
実はこの齟齬が議論の場では起きやすいのですね。会議でも会話でも、言葉のやりとりをする場全般に言える現象であります。
ですから、議論をする上では議論の論題以上に議論の目的、即ち議論の結果を求めるのか、議論をする過程を求めるかの設定が重要です。企業なんかだと特にそうで、会議の目的は結論を得ることなのか、それとも親睦を深めるためなのか。ここが入れ違うとどうにもならん。
目的がしっかりしていれば、誰を参加させるべきかもまた明確になるし。結論を求める議論に、コミュニケーション議論者を集めても仕方がないわけなんで。逆もまたしかり。

何のための議論か

この明確化こそ議論の肝であり、議論の結果吹きすさぶ隙間風の防止策でもあります。