(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

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生食にみる愚行権

厚労省がアップをはじめたようで。

要するに「肉の生食はやめろ」ということであります。危ないから。
で、今回の話はこの「危ない」と「やめろ」という関係性についてです。果たして肉の生食は、国に「やるな」と言われるべき筋合いなのか否か。食とそれに関わる国の規制を、どこまで認めるかということであります。
俺は自由主義者なので、基本的な立場としては「余計なお世話」です。危ないかどうかは自分で判断するし、食いたいものは勝手に食わせてくれ。食いたいものを「食うな」と言われる筋合いはねえよと。そういう考え方をしております。
もちろんその前提として、生食にリスクがあることは十分承知しております。

こういう記事を書くくらいですし、ある程度、食肉の生産現場の知識もあります。また、食肉を提供する飲食店で勤務した経験もありますから、飲食店の衛生レベルについての理解もある。そこから出てくる答えとしては「100%安全とは、到底言えないよね」で、安全のお墨付きなど到底与えられるものじゃない。
しかしながら、リスクがあるかどうかと、食いたいかどうかは別の話なわけでして、ええ。リスクがあっても食べたいんですよ。うまいから。



生食には生食にしかない魅力があるんで。ぷりぷりとした感触、得も言われぬ甘み。
で、これはある意味「愚行」なのであります。危ないとわかっていて食べる。自ら危ないことを進んでする。衛生の観点で言えば愚かなことなのであります。わざわざ危険なことを選択しているわけで。焼けばいいのに、あえて焼かない。
しかしながら「愚行権」を大切にしたいわけで。リスクがある。安全とは言えない。しかしながら、愚かなことをしようとも食べたい。リスクと引き替えに、うまさを味わいたい。命は惜しくても、ふぐは食べたいと言った昔の人と同じ心境。
この愚行権を抑えられたら、困ってしまうのです。愚行だと理解した上で、わざわざ愚かなことをしようとしているのに、国とかに「それは愚かなことだからやめておけ」と規制されたら、愚行の行先がなくなってしまう。「そんなんわかってるよ」「ほっとけ」です。
食における愚行と、愚行規制は肉の生食に限らず、これまでも繰り返されてきた話であります。最近で言えば「こんにゃくゼリー」なんかもそうですな。

喉に詰まらす危険性があるから売るなと。売るなら小さくしろ、弾力性を下げろと。
食の話を離れて考えると、原発に関わる一連の規制なんかも似たような話にあふれております。葉もの野菜の出荷規制とか、立ち入り禁止地域の設定とか。
しかしながら、こんにゃくゼリーで言えば、喉に詰まらす危険を承知で食べる分には、個人の勝手であるし、同様に被爆のリスクを承知で葉もの野菜を食べたり、原発に近い区域に戻るのも、個人の自由な選択であると思うのです。愚行権の範疇。
国とか政府がすべきことは、愚行を規制して、愚行権を行使できなくことではなくて、愚行の周知だと思っているのです。「肉の生食をするな」ではなくて、「肉の生食は危ないよ」ではないかと。保護されるべきは、愚行と知っていて愚行をする人ではなく、愚行と知らずに、愚行を行う人。愚行を愚行をわからない人。愚行だとわかっていて、それでも愚行をする人は、文字通り愚か者なのだから放っておけばいい。はい、私です。放っておいてください。
肉の生食で言えば、これは消費者だけではなく、お店側も含めて周知する必要はあります。肉の生食は、本来危ないよ。リスクがあるよと。これは言い続けなければいかんこと。しかしながら、それを承知の上でトリミングなどの加工を行い、安全性を高めた上で客に提供するのまで規制するのは困るし、それを食べることができない状況にされても困るわけです。ノーリスクには物理的にできないでしょ。
例に出した他の話も同様であります。
こんにゃくゼリーに関しては、「吸引力が弱い人が食べると危険」である旨が周知され、その危険性があることを前提に売られている分には買う側、食べる側の勝手。
葉もの野菜は、その地域の土壌の状態とか、同地域のサンプル野菜の放射線検出量とか、放射線が体に与える影響とかが周知されていれば、これもまた買う人の問題。
原発が近い区域の帰宅に関しても同様。検出されている放射線量の情報と、放射線が体に与える影響を理解してもらった上で、それでも帰る、帰宅するとなれば、それは帰宅した人の勝手、自由。それを制限するほうが不当だと俺は思うのであります。
国に任せると。愚行なんてできなくなる。危険性があるとダメ。危ないとダメ。官僚の仕事というのは、基本的に事故ゼロなのです。事故があっちゃならん。あると責任問題になるから。基本的に保守的にならざるを得ないのですよ。不作為の責任とかも問われられかねないし。

ここで書いた規制の病理と根っこは一緒。
けれども、危険性をゼロにできないことなんて世の中にはごまんとある。肉の生食は危険性をゼロにはできませんよね。けれども、危険性がゼロではないから「するな」というのは、ちょっと窮屈な話でありまして。食べればおいしい。けれど危ない。こういうトレードオフの関係があるときに、個人の価値観において選択できるというのが自由社会の良さでありまして。愚行権って、自由の大事な要素だと思うわけですよ、俺は。
もちろんこれは「自己責任」と裏返しの話。各個人に責任を迫るわけで、これはこれでめんどい。けれど、「店が出したものだから大丈夫だと思った」では責任をお店になすりつけているだけであるし、「国が規制していないから大丈夫だと思った」もまた国に責任を預けているだけ。店レベルで言えば「業者が納入していたものだから(以下略)」なんかもそう。んなもん、あぶねえものはあぶねえんだよ。
こういう事故、事件があると、何かと国のお出ましを願う論調を目にします。「国は何やっているんだ」「規制しろ」「管理しろ」「基準つくれ」などなど。俺はこういう話には乗れない。国に任せたら、最も保守的なところで決まってしまう。肉の生食で言えば「出すな」「食べるな」。安全だけど、それでいいのかね。
俺は愚かな人間なので、愚かなことをしたい。愚行を大事にしたいと思い、今日も生肉を食べに行くところであります。国はほっとけ。生肉を食わせろ。