(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

被災地を実際に巡っての雑感

とりあえず書き終えたわけですが。

測量士が足りない

もうね、現地では測量している光景を山ほど見かけるわけです。あちらこちらを測っている。
で、これは当然ながらその必要があるからなんですね。何をするにも測量データが基本になるわけで。地震の影響、津波の影響を記録するためにも。土地や建物の登記関係を改めて精査する上でも。道路や橋梁、鉄道などの土木工事を行う前段階としても。
しかしながら、測量というのは資格仕事でありますから、かけられる人手に限界がある。東北の測量士を全員かき集められるか? という話でもあり、足りない分は他の地方が出してやれるか? という話でもあり。
そしてその分、薄くなった状態で他の地方がやっていけるか? という話でもあります。有資格者が限られる以上、ある地方に大きな需要が生まれれば、他の地方では供給不足になるのは目に見える話なわけで。

重機・建機は足りている

その一方、重機や建機の需要はピークを越え、余り出した感じです。現地の建機レンタル屋を見ても余っている。それも大量に。整備を終えたユンボがずらりと並んでいる。
今回の視察に同行した友人は、昨年の同時期にも現地をまわったのですが、その友人曰く、「昨年は余ってなかった」と。どこもかしこもユンボが激しく動きまわり、レンタル屋には残っていなかったと。
瓦礫の収集や撤去などの作業に目処がついたことの証左かもしれませんな。

しかしそのうちまた足りなくなる

とはいえ、これは一時的な現象と思われ。測量が終わり、これからの施工計画が定まり、いざ施工となればまた不足すると思われます。
現状は踊り場みたいな状態で、測量くらいしかやることがない。何かをつくる段階ではなくて、つくる前段階。いざつくるとなると大量に必要になるものの、その段階ではないために余っているというのが実情と思われます。……こうした判断が背景にあるから、他の営業所とかに重機を移さず、残しているんだろうしな。重機を遊ばせとくには何か理由があるはず。

オペレーターが足りなくなる

となればそのうち深刻なオペレーター不足になるのは必定。瓦礫処理よりも高度な作業が必要になるので、求められるオペレーターのスキルも上がるわけですが、じゃあ、そういうオペレーターは日本にどれだけいますか? という話になってくる。測量士と同じような構図になってくるわけですね。
で、これが民間の施工とかであれば「その必要があれば大枚はたいてでも人員を確保する」ということができるわけですが、公共工事なわけで、そういう露骨なこともやりづらい。ことにこういう震災後の話ですから、世間の目もあるし。人員確保の都合で、ちょっと多めの金額を出したら、それは格好の批判ネタになりそうですし。
震災後、都内なんかも人手不足になった時期もあって、このあたりはまあいろいろとね。予算編成の問題とか、予算関連法案の成立のタイミングも絡んできそうで、かなり雲行きがあやしい。

治山治水待ったなし

今できる土木工事となると、何はともあれ治山治水でしょう。これはかなり緊急性が高い。津波の影響はそれだけ大きくて、未だに爪痕が残っている。
とりあえずは河川の護岸整備と、浚渫かな。河川の川面が高くなっていて、危険な状態になっている場所が多くみられる。とりあえず護岸整備して水害が起きないようにしつつ、川底にたまった土砂をとり、川を深くする。
これは港湾整備ともセットでもあるな。

こういう状態の埠頭が山ほどあるので。港の浚渫も必要。港が浅くなっているため、大きな船が入ってこれない場所がある。
あとは地すべり対策。

こういう場所は本当にたくさんあって。

どこをやって、どこをやらないか

ただ、問題は優先順位の付け方。どこをやって、どこをやらないかの選択。
もうね、あちこちにあるわけ。工事が必要なところが。ただ、測量が終わっていないし、結論が出ていないから施工できていない。
港湾整備で言えば、「じゃあ、今後その港使うの?」という話からはじまるし、「じゃあ、そこに人住むの?」という話でもあり。使うんなら直さないといかんし、人が住むなら手を入れないとまずいけど、そうじゃないなら後回しでいいよねと。
その結果、本文でも指摘したように、被害がわりあい軽い地域の方が復興が進んでいるという現実もあって。直せば使えるし、人も住める。つか、現実にまだ住んでる。であれば直そうかという話にもなりやすいが、港から人は離れているし、今もなお仮設住宅に住み、人が戻ってくるかわからないという被害が大きい地域だと、どうしても対策が後回しになりがち。
本当は被害が大きいからこそ、早めに手を入れないといかんと思うのだけれど、実際はその逆になっているという。しかしまあこれだけ被害が大きく、また広い地域に渡っているとなると、「本当に使うんだな?」「本当にまた人が住むの?」に明確なイエスがない地域を後回しにしないと、見通しがたっている地域にとって不都合でもあり。これはなかなか難しい問題だ。

衣食住以外がない

仮設住宅はできたし、道路も復旧して、輸送インフラも整ってきた。生活の根幹となる衣食住はなんとかなる。
問題は、それ以外がないこと。お店がない。プラスアルファがあんまりない。
結局は、お店を営んでいた人たちも被災者であるということに尽きるんだけども、「今後の住宅地はどこにするか」に結論が出ないと、住人を相手にした商売をやりようがない。
仮設のコンビニはやっとできたのかもしれないけども、本屋さんであるとか、床屋さんであるとか、雑貨屋さん、食べ物屋さんなどなど、生活に彩りをもたらすものがない。

場所によって全然違う

南相馬ではこういう「衣食住以外がない」というような状況はあまりなくて、国道沿いにはどこの地方でも見られるような、チェーンの大型店舗も結構あるのだけれど、何せ福島原発事故の影響による閉塞感が凄くて、それが町を覆い尽くしているかのように見える。
津波による「すべてなくなった」という絶望感と、原発事故による「どうにもならない」という閉塞感。
この違いがあるように感じる。一次被害の影響と、二次被害による影響の違いというべきか。
当たり前ながら地域によって震災の被害程度は違うし、同じ地域によってもちょっとした環境の差によって変わってくる。一口に南相馬と言っても、海沿いの集落と内陸の集落では違うし、駅に近い住宅地の方では感覚も変わる。
三陸もまた同様で、自治体が違えば状況が異なるし、ちょっとした入江の向きや、高台の位置、住宅の配置状態によって、被害の有無が大きく違う。

被害の差から生まれる不都合

今後はこうした被害の大きさの違いから生まれる意見対立なんかも問題になってくると思う。自治体内部でも意見が分かれるだろうし、もっと細かく集落単位でも意見の相違が目立ってくる。
民主主義というやり方もときに障害になるかもしれない。多数決では時に少数の民意が切り捨てられる。その少数が本当に復興を望んでいても、切り捨てられる場合があるかもしれない。その地域の選択として。
ある程度、強権的なリーダーが取捨選択を進めた方が実は復興はしやすい。強権的な取捨選択ができないことによって、地域の復興が遅れ、全体が損をするという側面は否定出来ない。
しかしながら、その全体の損と、取捨選択の結果捨てられた人が被る損のバランスをどう考えればいいのか。これはまた難しい部分でもあって、人としてそうそう割り切れるものでもないわけで。
過疎化が進む場所は当然ながら出てくるだろう。また、被害がわりあい軽かったことによって、一時的にせよ、人口集中が進む場所が出る可能性だってある。
こうした「被害が軽いほうが復興が進みやすい」「被害が重いと復興すらできない」という現実的な不都合をどう解消するか。今後のテーマになるかもしれない。そして誰かが損をする取捨選択を迫られている場合に、どうやって結論を素早くだすか、ということも。民主主義のあり方論であり、地方自治のこれからでもある。