(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

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最速!長野県知事選挙分析

■実は健闘? 実のある敗戦だった田中康夫
康夫劇場に「NO」…かつての支持者も次々離反(読売新聞)
田中氏の「壊す」政治を県民否定 (毎日新聞
田中氏の手法に拒絶感 「次の改革」望んだ一票 (信濃毎日新聞
長野県知事選の結果を報道する各紙の記事・見出しには結構厳しい論調が目立ってます。そうした論調をとること自体は間違いじゃあないです。村井仁との1対1の選挙戦。現職でありながら約8万票差の敗北。こうした結果が示すのは「田中康夫惨敗」であり、出てきた結果を表面上とらえれば、こうした厳しい見出しも至極当然。まっとうであり、普通です。けれども投票結果の中身を精査すると、田中県政は着実に長野に根付いていた様子がうかがえます。実は田中県政は評価されていたんですねえ。県民に。
■2000年10月知事選との比較
田中康夫が初めて長野県知事に当選したのは6年前、2000年10月15日に行われた選挙。5期20年知事の座にあった吉村午良が引退し、その後継者として副知事であった池田典隆が有力視され、当初は無風の雰囲気全開でした。そういた状況下で敢然と出馬。ブームといえるくらいの大きな風を巻き起こし、フタを開けると11万票余りの大差をつけ圧勝。地方政治に風穴を開けたということで、話題になりました。
そのときの投票結果は正に無党派ブームそのもの。郡部の大多数を制した池田に対し、市部の大多数を制した田中。11万票余りの大差をつけながら、当時103あった町村のうち、田中が池田に勝ったのは、わずかに27。人口が多い地域での得票がものをいったのは、表1を見れば一目瞭然です。
(表1)2000年長野県知事選 郡部・市部投票結果 [長野県選挙管理委員会データより筆者作成] http://www.pref.nagano.jp/senkyo/
         田中康夫 池田典隆 田中−池田
町村得票数     200,621  209,405  ▲8,784
 市得票数     388,703  264,312  124,391
合計得票数     589,324  473,717  115,607
勝ち町村数(103)     27    76
勝ち市数 ( 17)     15     2
2000年の選挙では、都市に住む無党派層の追い風を受けて当選したと言えます。
ところが、昨日の投票結果を見ると、2000年の時に見向きもされなかった郡部に、田中支持が広がっていることがわかります。2000年10月の選挙と今回の選挙を比較すると、このような結果になります。
(表2)2000年・2006年長野県知事選 田中康夫得票比較 [長野県選挙管理委員会データより筆者作成]
    2000年 2006年 06年/00年
総得票  589,064   534,229   90.7%
郡部   124,062   126,387  101.9%
市部   465,002   407,842   87.7%
投票率  69.57%   65.98%
※2000年時の投票結果は現在の自治体になおして集計
 山口村は現在は岐阜県編入されているため、データから除外
あれだけ弱かった郡部では、敗戦したにもかかわらず得票増。投票率が3.59%下がっていながら得票を増やしているわけですから、郡部での奮闘具合がわかるというものです。
■北部で疎まれ、南部で受け入れられた
長野県は衆院選での区割りだと5つに分けられますが、この区割りごとに結果を見ていくと、このようになります。
(表3)2000年・2006年長野県知事選 田中康夫区割り別得票比較 [長野県選挙管理委員会データより筆者作成]
   2000年 2006年 06年/00年
1区  146,666  120,768   82.3%
2区  128,603  106,334   82.7%
3区  129,545  120,564   93.1%
4区   86,893   86,584   99.6%
5区   97,357   99,979   102.7%
※2000年時の投票結果は現在の自治体になおして集計
 山口村は現在は岐阜県編入されているため、データから除外
長野県最大の都市である長野市がある1区、第2の都市の松本市がある2区で大きく得票を減らしている反面、4区・5区では健闘しています。長野県を南北に2つに分けると、1・2・3区が北部、4・5区が南部となり、得票の南北差が明確になります。
ちなみにこの4区は、梅雨の豪雨で大被害を蒙った岡谷市を含む地域。村井陣営は「元防災担当大臣」という肩書きを前面に押し出したものの、岡谷市での結果は田中16,423票、村井11,832票。4区全体でも田中86,584票、村井77,092票と田中勝利。5つの区割りの中で唯一田中が勝ったという皮肉な結果になりました。一見有利になると思われた肩書きが、全く役に立たない。それどころか、治水被害を受けながらも田中に投票したという結果は、「脱ダム宣言」などに代表される田中の治水政策に対する信頼の現われと言えます。
その証拠に、脱ダム宣言では下諏訪ダムの計画が中止されましたが、下諏訪ダムの建設予定地である下諏訪町でも田中7,459票、村井4,765票と田中勝利。村井は早くも田中の治水政策撤回を匂わせていますが、実は一定の支持を得ていた政策であることを念頭において、慎重に取り組む必要がありそうです。
■何故、田中は負けたのか
郡部での支持を広げ、着実に評価を高めていた田中は何故負けたのか。単純に言えば、6年前に吹いた順風が逆風になったといったところでしょう。6年前にあれだけ強かった市部で6勝13敗。特に最大の票田である長野市で、2000年の103,796票から82,503票へと2万票余りの減少。今回の村井に長野市でつけられた差がやはり約2万票だったということを考えると、都市型無党派層が離れたことが最大の敗因と言えそうです。
但し、信濃毎日新聞の見出しのように、都市型無党派層が田中の手法に拒絶感を示した、とまでは言えません。何故なら今回比較のデータとして使った2000年の選挙結果はブームに乗ったことによる結果。いわばゲタを履かされた状態での結果なので、都市部においては今回の数字が田中の基礎票と考えるべきだからです。2003年の衆院選に村井は長野2区から出馬していますが、そのときの得票数が94,270票。今回の田中が106,334票。衆院選と知事選という違いはあれど、地域が同じであり、投票率もほとんど一緒(2003年衆院選66.00%、今回67.89%)、ともにブームを背景にしていないことを考えれば、田中と村井に基礎票の違いはない。田中に吹いていた風が田中以外の存在であった村井に吹いただけ。村井だから風が吹いたのではない、というのが今回の真相です。
なので村井大勝といえど一過性。仮に4年後同じ組み合わせで知事選を争った場合、田中が逆転すると思われます。同時に郡部でのデータから明らかなように、長野での田中支持は明確な現象。国政に打って出ることを田中は既に匂わせていますが、その勝算は高いと思われます。以上、タケルンバの分析でした。