(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

食べログの限界はネット直接民主制の限界

食べログの話題をにやにやしつつ眺めていたタケルンバです。こんにちは。
「やらせ」とか「ステマ」とか姦しいわけですが、要するに問題はシンプルで。

評価点を操作するのはアリか?

私企業が運営する飲食店の評価サイトがある。その評価点を一定の意図のもと、左右しようとしている人間がいて、それを商売にしている。果たしてそれはアリか?と。
個人的にはどうでもいい話なんですよね。だって私企業がやっている評価サイトの話なので。公が運営しているものならともかく、私企業なので。株式会社カカクコムが運営しているサイトの話なので、カカクコムの勝手。話としては「ミシュランの星の付け方はどうなのよ」と一緒。文句はミシュランやカカクコムにどうぞ。
問題は「Web2.0」やらなんちゃらで、こういう口コミサイトの評価点が、ある種、神聖なものになっていること。大衆の善意は正しい。投稿が数集まることで、より実体にあった評価になると。善意は悪意を駆逐する。食べログの評価点は多くの一般人の評価の結果だから、正しいに違いないと。その正しかるべき評価点を操作するのはけしからんと。
でもね、そんなイメージって偶像に過ぎないわけで。だってさ、いくら5段階で評価するっていったって、その評価基準がバラバラなら、正しい評価になるわけない。
例えばはなまるうどん。チェーン店だから、全国同じ物を出している。だから同じような味なはずだし、同じような評価になるはず。

ところが、香川と東京、大阪ではこういう違いになるわけで。ほぼ3点前後に収まっている香川。それに比べ、比較的高い点数の店舗もある東京、大阪。
同じうどんでも、環境の違いで点は違うわけよね。
それに「不正」の基準も微妙で。「ある意図をもって投稿する」ことが不正だと。意図的に5点の投稿を増やすことで、評価点を上げる。あるいは好ましい口コミを増やすことで評判を上げる。これらの行為が「あの店はおいしいから、もっとみんなに行ってもらいたい。5点をつけよう」「もっと評判になって欲しいから、いい口コミを書こう」というのとどう違うのかと。本質的には変わらんよ。意図があって投稿する。その意図が誰にとって好ましいかの差でしょう。

意図があろうがなかろうが一票は一票

結局のところ「食べログが困る意図的な投稿」が増えることが問題であって、「食べログが困らない意図的な投稿」は問題ではないわけです。で、「食べログが困る意図的な投稿」とは何かというと、「食べログの利益にならない投稿」なわけです。食べログには利益が入ってこないもの。利益どころか、食べログ自体の評判を下げるという不利益を生むもの。そういう投稿が困る。
現状、食べログの評価システムというのは、投稿者の評価によって支えられているわけで、ある意味、直接民主制住民投票のようなもの。誰にでも投票できる制度にすることで、公明正大にすることができた。
独裁者がいた時代は、その人にお金を握らせれば良かった。間接民主制のときは、議員にお金を配れば良かった。直接民主制だと、投票できる人があまりにも多く、お金を渡す相手がいない。だから口コミサイトという直接民主制の形態が成立した。集団の善意は一部の悪意に優ると。
しかし、ある一定の意図を持つ人間にも投票が解放されていることで、「公明正大に」操作することが可能になった。これが今回判明したシステムの限界。堂々と意図を持って投票することで、結果を左右できる。意図に近い結果を導くことが出来る。意図なしの一票も、意図ありの一票も同じ一票。
しかもその一票を生み出す有権者であるアカウントは、基本的にはいくらでも増やせる。アカウントをつくることにハードルがないから、善意の投票者による評価点サイトが成立したわけだけれど、そこにハードルがないために、悪意*1のある投票者を増やすことで、評価点や評判を左右できると。住民を増やすことで、選挙結果を左右できるようになったら、直接民主制は機能しますか? という話で。
これはシステム的な問題であり、直接民主制の限界のような話。意図的な利益誘導を、制度設計でもって如何に排除出来るかという問い。
ま、見る側、利用者側の使い方の問題でもあり、リテラシーの話でもあると思うのですがね。

*1:一般的な意味ではなく、法学的な「悪意」と解釈してください。