(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

KYという主張

なんか「KY」に関する議論があちこちで巻き起こっておりますが、そもそも論として、この話が忘れられがち。

「KY」=「空気読め」という命令

元々の言葉からして命令なわけですよ。で、命令ということは、命令する側の意思が介在しとるわけ。言葉には出てこない前提が隠れている。

  • こういう場面では○○すべきだ → ○○しろ

この「こういう場面では○○すべきだ」というのが前提。その前提から「○○しろ」という結論である「すべきこと」を導き出している。でもって「すべきこと」をしないヤツを「空気が読めない」即ち「KY」であると。本をただせばこういう論理なわけですな。
するってえことはですよ。実は「KY」でも全然いいんですよ。空気が読めなくて結構。何故なら、「KY」であるという結論を導き出す前提が正しくないから。論理学を紐解くまでもなく、前提が間違っている推論の答えは間違っているもんなんですよ。前提がおかしい以上、結論だっておかしい。
この前提がおかしい最大の理由。それは「すべきこと」が一定ではないから。前提が共有されていないことに問題がある。ある場面に遭遇したときに「すべきこと」と思う行動は、人によって違うわけですな。例えば人がスピーチしている。そこで場を盛り上げるためにヤジを飛ばす人もいれば、静かに聞いている人もいる。それはその人がそれを「すべき」と判断したわけですよ。同じ空気を共有しているのに、出てくる行動は正反対。
であるならば、ヤジ側が静聴側を「KY」と呼ぶこともできるし、静聴側がヤジ側を「空気読め」と言うこともできる。それは自分の立ち位置があって、それと異なる立ち位置に対して投げかける言葉に過ぎない。自分の「すべきこと」という基準を他人に当てはめようとする行為。自分の信条を前提においた実に非科学的な論理なわけです。
もちろん実際にはその場その場の正解は出るし、「KY」な行動はあるのだけども、それは後付けの話。ある行動が現実に行われたときにはじめてわかる話で、実は実際に行動にうつされないと答えはわからない。さっきのスピーチの話でも、答えは毎回違うんですよ。フォーマルかどうかとか、スピーチしている人の属性だとか、ヤジった人の評判とか、ヤジの内容、その他会場の雰囲気など、あらゆることが複雑に絡まって正解・不正解が決まる。同じことをしても結果は異なることもある。何が良くて、何が悪いかは一概に言えないもんなんですよ。
で、いわゆる常識というのも、実際は答えがないもののトライ&エラーの中で、何となくできてきたものに過ぎないのです。マナーもセオリーもそう。何となく「こうした方がいいよね」という共通認識が積もって形作られたもので、実は実態はない。地域差や民族差などがあるのがその証拠。絶対的な答えであるなら、答えに差があるわきゃない。「ゆらぎ」があるから地域差があるし、民族差がある。絶対的であるわきゃないんですよ。微妙に違っていていいんです。「KY」でいいし「空気読めない」でいいんです。そんな誰かの勝手な前提に基づく、勝手な空気は無視して良し。
それより大事なのはこっちよね。

自分は何故それを「すべき」と考えたのか

正しくない前提に基づく空気感を読む行動より、自分自身は何故それをすべきと考えたのかの方が遥かに重要。

  • こういう場面は○○すべきだ → それは××だからだ

こうした論理に基づく行動をとっているならば、あなたがとっている行動は論理的に正しい。現実に正しいかどうかはわからないけども、少なくても話の筋道は合っている。ましてこっちの論理は再現性がある。「KY」はその空気の読み手によって常に答えが変わるけども、こういう論理で考えている限り、答えは一定。同じ場面であれば答えは一緒。それは答えを出す論理が一緒だからで、何と明快なことか。
また修正も楽。間違いがわかったら、論理自体を直せばいい。「××」の理由がある場合、「△△」すればいいとわかったとする。となりゃこうなる。

  • こういう場面は△△すべきだ → それは××だからだ

話の筋道が正しいと、間違いも直せるし、何が間違いなのかもわかる。あやふやなその場限りの空気感を読むより、自分自身で答えを出すプロセスを身につける方が建設的では。

  • 空気とは、勝手に誰かが作るものである
  • KYとは、KYと呼ぶ人と考えが違うだけである

こういうことに気付きませう。