(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

見栄という感覚が懐かしい

オレもベビーカーに乗った記憶がないんだよな。

私にその頃の記憶などもちろんなく
(古くとも6歳くらいからの記憶しかない)
母に「うちにベビーカーってあったの?」と聞いてみた。
母はあっさりと「なかったよ。貧乏だったし、高かったし」と言った。

ベビーカーの記憶。

オレは何故か3歳か4歳くらいの記憶からバッチリある。何せ3歳か4歳で山口百恵ファンだったので。

で、その頃の記憶を手繰り寄せても、ベビーカーなんてなかった。乗った記憶もなければ、家にあったという記憶もない。2つ下に妹がいるが、妹も乗ってなかったし、妹用のベビーカーもなかった。ということは、我が家にはなかったはずなんだよな。

結局ベビーカーは親の見栄をはりたいだけの道具だ。

ベビーカーの記憶。

ただ、これが理由じゃない。ベビーカーを買う必要性を親が感じなかった。それだけのこと。
「何でベビーカーがいるの?」
うちの親はこう思ってたはず。両親ともに田舎の大家族で育っていて、ベビーカーも何もなくても問題ねえと思っているから、必要性をまったく感じなかったはず。小さいときには抱えればいいし、おんぶすればいい。大きくなったら自分で歩かせろ。手を引いてやればいいじゃないか。そんな感覚だったと思うんだよな。
また、必要性を感じる以前に、ベビーカーの存在をあまり知らなかったかも。多分、30歳前後の世代がガキの頃は、あまりベビーカーというものが一般化されてなかったはず。ベビーカーが出現するようになったのは、現25歳前後の世代からだと思うんだよな。幼稚園児のときはベビーカーを見なかったけど、小学生になって見るようになったから。これ、うろ覚えの感覚。
しかも昔は高かった気がする。安売りされてなかったし、ドン・キホーテとかで売ってなかったし(そもそも、ドンキがねえよ)。「すぐ大きくなるんだから」で、大き目の服を買い与える感覚って言うのかな。「すぐ乗れなくなるんだから、もったいない」というのもあったと思うよ。「小さい間のウン年間のために、わざわざ高いベビーカーを買うなんて」みたいな。
逆に言えば、今、ベビーカーが出回っているのは、こういう感覚がなくなってきたんだと思うな。ベビーカーという存在が知られ、ベビーカーによって親の負担が減ることが理解され、同時にほどほど安くなったおかげで、費用対効果として見合うようになった。払うお金と、それによる親のラクがバランスするようになった。b:id:mahal氏のブクマコメントにもあるように、親の行動半径が広がったことで、その効果は益々大きくなったことでしょうし。
そう考えていくと「見栄」という感覚は、どっちかと言うとオレとかの世代、ベビーカーが珍しい時代の感覚で、最近の感覚じゃないな。最近のベビーカーは見栄になるようなものじゃないもの。ステータスでもなんでもない。費用対効果に応じて買う・買わないを選択できる、単なる商品。コモディティ
例えるなら携帯電話。あれも初期は見栄とかステータスだったでしょ。「オマエは通信兵か」みたいな装備だったじゃない、昔は。鈍器みたいな端末だったし。それに持っている人は珍しかった。少数派だった。今じゃ誰でも持っているけどね。それと似ている。
それだけ日本が豊かになったということですよ。見栄が見栄にならなくなったということですよ。自慢しても「ダセエ」と言われる時代になったということじゃないかなあ。

だが一番の問題はまだ子供を作るために必要な、
相手すら見つかっていないということなのだ。
すみませんすみませんすみません。

ベビーカーの記憶。

あ、オレもだ。
すみませんすみませんすみません。