(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

夏のありがとうキャンペーン

我が「社交辞令が効かない会」の夏のキャンペーンとして、次のことに取り組んでおります。

ほめられたら素直に「ありがとう」を返そう

簡単そうで難しい。

「発言は額面どおりに受け取りましょう」

発言を額面どおりに受け取る - (旧姓)タケルンバ卿日記

これを忠実に実行するだけのことなんだけどね。照れとか体面、タイミング、場の空気感、相手との人間関係。こういうのがいろいろ作用して、なかなかできない。素直に「ありがとう」が言えない。他の返しをしてしまう。

「いいや、それほどでも」

特に問題になるのが日本人的な遠慮の意識。謙譲の精神。へりくだり、ゆずる。DNAに染み付いた一歩下がる心。これが邪魔するのよね。せっかくほめられても「いやいや、それほどでも」的な返しをしてしまう。
ただ、この返しって本当はおかしいんだよな。相手は自分をほめた。相手の行為としてはこれで完結してる。「ほめる」というボールを投げてターンを終了している。あとはこのボールをどうするか。投げられたボールに対する自分のターン。自分の行為が問われている。
ここで「いやいや、それほどでも」って返しは、日本的美意識ではアリなんだろうけども、コミュニケーションとしては何の意味もないような。なんというか、せっかくボールを投げてきたのに「今のナシね」「ノーカウントね」で処理するというか。ただボールを見送るのではなくて、投げられたボールをキャッチしてピッチャーに返すような感じ。反応しているけど、結果として無反応と同じ。

「自分は無能ですから」

遠慮度が上がると、もっと凄いことになっちゃう。自嘲・自虐の領域に突入。「自分は無能ですから」とかで返す。その場合、貶めたのは自分なのに、あちこちに飛び火する。「その無能なヤツをほめた俺の立場は?」とか「無能以下の俺って何?」とか。
いいバッターだと見込んでボールを投げたのに、バッターが「俺そんなんじゃないから」とやってしまうと、ピッチャーまで浮かばれない。下手すりゃほめた方が気まずい。遠慮したつもりで、ほめた人を傷つけてしまうことがある。これは本当にもったいない。
もちろん本当に社交辞令で、会話のタネとしてほめたりほめなかったりの流れもあるだろうけども、それが社交辞令かどうかなんでなかなか見抜けるものじゃないんだから、とりあえず「ありがとう」で応じてしまえばいいと思うんです。真に受けてしまえばいい。額面どおりに受け取ればいい。「ほめる」というボールを受け取ったんだから、それに対して「ありがとう」という感謝で応じればいい。
そしてだ。逆にボールを投げ返してみてはどうだろう。

「でも、○○さんも凄いですよね」

ほめ返し。謙譲ではなく尊敬。自分を下げるんではなくて、相手を上げる。上げ返す。こうすれば角が立たない。自分がへりくだって、誰かに飛び火するリスクもなければ、社交辞令的ではない受け答えをして、人間関係を損なうこともない。うまくいけば、相手だっていい気分になるし。
ほめられても否定してしまうネガティブ姿勢ではなくて、ほめられたら肯定しつつも、そのほめた相手をほめ返すというポジティブ姿勢。「社交辞令が効かない会」ではこの姿勢転換を目指し、ありがとうキャンペーンを推し進めております。ほめの裏読み、背景読みは無用。読んでもどうせわかりません。とりあえず「ありがとう」と言っておきましょう。すべてはそこからです。