(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

過剰な反論もまた価値観

「前提の共有の有無」ってところに尽きるんだろうなあ。

特に価値観に関わる話は。
基本的にあらゆる主張は、前提があって、仮説みたいなものがあって、それでもって結論を導く。なもんで、前提が同じでないと、同じ結論にならない。前提が違えば結論が異なる。
で、そこに「さすがにこの前提は共有されてるでしょ」みたいなもの=常識ってものがあるわけだけど、その常識だって共有されているとは限らない。「共有されているはず」という前提がさらに存在しているだけ。議論の落とし所なんかもそうで、「このあたりだろう」という話が、どれだけ共有されているかってところになるんだよなあ。
もちろん「常識」にもレベルがあって、「さすがにこの程度はお願いしますよ」と言いたくなることもあるんだけど、それとて「お願いしますよ」という当人の思いがあるというだけのことで。「この程度はいける!」というレベル認識の押し付けになってたりもする。もちろん当人に悪意はないし、そのつもりもないし、「そういうもんだろ」というだけのことで、「当然そう読むべき」場面も多くあるんだが、「いやいや、そうとも限らんよ」という考え方もまたひとつの価値観なのでね。まあ難しい。
また話をややこしくするのは、書いた本人にとって、反論が筋違いであればあるほど、その当人にとって目立つ反論となってしまう。本来、筋違いの反論ってのは取るに足らない意見であることが多いんだけども、極論であれば目立ってしまう。極端な反発であればあるほど、反発された側の感情を刺激してしまう。
それに「こう読んでくれ!」という思いが強ければ強いほど、反論されることに対する嫌悪が強くなってしまうよね。思った通りに読んでくれない=裏切られた=失望という展開になりがちというか。いや、まあ「こう読んでくれ!」という期待そのものが勝手な言い分であり、勝手な思い込みであるんだけど、時にそういうことを言いたくなることも人間あるわけでして。読み手は読みたいように読むわけだし、書き手も書きたいように書く。そこにどうしても齟齬が生じちゃうんだよな。
ってなことを冷静に書いている私、タケルンバでありますが、「じゃあ自分がそうされたらどうなのよ」って話になると、決して見本になるような人間じゃないですし。未熟者全開ですしね。悪い見本市状態になってしまうこともあるわけだし。
ただまあこういう面倒な話は、冷静な時にこそ考えておいた方が良くて。スパークしてる時は、こんなこと考える余裕もなくスパークしてるわけだし。冷静じゃないから熱くなっているわけだし。落ち着いて考えられるうちにこういうのを書いておいて、なんとなーく心のくさびをブログに残しておくことで、心の平静を保てるようにと。そういう効果を期待しておるのでございます。明日のスパークして妙なことになっている自分のために。
もっとも、スパークしている自分もそれはそれで自分らしいとは思っているんだけど。熱くなれる部分があるっていいことじゃないですか。ねえ。(言い訳)