何故既存メディアがダメになったのか。あるいはダメに見えるのか。
日本語で伝える能力が下がった
自分はこれが理由ではないかと思っている。報道機関としての言語能力の欠如。
では何故そうなったのか。
ビジュアルへの依存
新聞・雑誌でいえば写真。テレビでいえばまさに映像そのもの。そうしたものへの依存が、言語能力を下げたのではないか。
紙メディアでは長い記事よりも、1枚の写真の方が雄弁なことがある。1枚の写真の方が状況をより伝えることがある。映像もまた同様で、アナウンサーなどが語らずとも、映像がすべてを伝える。
しかし、そういう便利な存在が、彼らの「言葉で伝える」という能力育成を阻み、言語能力を下げたのではないかと思っている。言葉よりも伝わるものがあるから、言葉で伝えることが苦手になってきているのではないかと考えている。
「おいしい“え”」
写真や映像の方が伝わることにメディアが気付いたから、人々に知らせる方法として写真や映像を選択しがちになっている。こういう現実もあるだろう。伝えたいことがある際に、それを効果的に伝える手段として写真や映像を集める。より刺激的な写真、よりショッキングな映像。より良い道具の希求。「おいしい“え”」を求める根底。
手段と目的が逆になる可能性もある。より効果的に伝える手段としての写真、映像であるうちはまだいい。伝える側の意思とか意図がベースにあるから。けれども、「おいしい“え”」が手に入ったことで、それに合わせて報道が作られる危険性はないんだろうか。目的を達成するための道具とういう関係性ではなく、道具に合わせて目的を設定する愚を犯してはいないか。
ビジュアル効果への無頓着
また、ビジュアルの効果を優先するあまり、負の効果をないがしろにしてはいないだろうか。本来伝えようとしているもの以外を伝えてしまう可能性はないだろうか。
- 『AERA』の「放射能がくる」vs『週刊ポスト』の「日本を信じよう」が話題に | ガジェット通信 GetNews
- http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110320/ent11032021480015-n1.htm
「AERA」の件などはそういう実例に感じる。雑誌を手に取る人がまず見る表紙に、インパクトのある写真を載せる。その結果、見た人がどう思い、どう考えるか。このあたりの想像力がない。「これを伝えたい」という対象物以上に、他のものを伝えてしまう。ビジュアルにはそういう特徴がある。ビジュアルは言葉よりも情報量があるため、「余計」なものが伝わりやすい。
言葉よりも慎重に
ビジュアルを扱う際は、言葉よりも慎重さが求められる。
このことに気付いていないのではないか。言語より伝わるからと、安易にビジュアルに頼っているだけで、それを安全に使う心得が不足している。
同時に「わかりやすさ」を求め、ビジュアルを選択しがちな我々の問題でもあるけれど。