(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

豊崎由美が全力で釣っている件

まあ、文芸評論家もあれこれ釣らなくてはいけないので、大変な商売ですなあ。

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渡辺淳一が嫌いで、金井美恵子が好きという女史からみりゃ、そりゃケータイ小説なんて文学足りえんでしょう。「コンデンス」的な凝縮感がクドいでしょうし、リアリティの欠如、ストーリーの陳腐さ、稚拙な描写などツッコミどころ満載でしょうし、いわゆる「言いようのない軽さ」に対する嫌悪感はよくわかる。
とはいえ、豊崎社長が「一緒にカテゴライズしてくれるな」と指摘する以前に、そもそも文学作品とケータイ小説って別なのですよ。勝手に同一線上にカテゴライズされただけで、書いた側も読む側も、それが文学作品だと思っているわけじゃない。「一緒にしてくれるな」という前に「一緒じゃない」のです。
もっと言えば、そういう分類なんてどうでもいい。書きたいから書き、読みたいから読む。ケータイ小説の動機ってこんなもんですよ。そこに特別な意味合いはない。ケータイ小説作品が多くたまってきたので、何となくパターン化がされ、そういう分類をされとるだけ。また、意図的に似せる人が出てきただけで、本質的に「ケータイ小説とは」なんて定義なんてない。定義してるのは、ケータイ小説と縁もゆかりもねえ人なんですよ。読む側がそんなこと気にするわけねえじゃん。
大事なことは、「ケータイで小説を読む」スタイルができたということなんですよ。で、それは「印刷された本の形で小説を読む」と本質的には同値。高尚も低俗もねえ。単なるスタイルの違いですよ。
喩えるなら、レコードとCD、あるいは自宅のオーディオとウォークマン、あるいはipodとのスタイル差。音楽を聴くという意味ではどれも一緒。「レコードの方が音域がどうの」「ipodはカットされる音があるので、深みがない」みたいな話を聞きますが、まあそんなことはどうでもいいわけで。そんなのはスタイルの問題でしょうと。価値観の違いでしょうと。多少の音質低下はあっても、音楽を持ち歩くという新しいライフスタイルの良さもあるでしょ。同時に自宅のオーディオセットで、古いレコードを押し頂くように拝聴するのも、それはそれでいい。それだけの話じゃないですかね。「ブルーレイの高画質で動画を」という人もいりゃ「ニコニコ動画で十分」と思う人もいる。でも見る映画は同じだったりする。そういうことよ。
で、その証拠に、ケータイ小説は活字化されても売れとるわけですな。いいものは、ケータイで読んでも、本で読んでもいいのですよ。良作はスタイルをまたぐ。売れてるということは、そうした証明なのですよ。少なくても買った人はいいと思って買ってるので。
そこで旧来のスタイルを保持する人は「文学的知性の劣化だ」みたいな揶揄をするわけですが、それにしても余計なお話。「売れる高尚な作品」とやらをつくれないヤツが悪い。ケータイだろうが、本だろうが、いい作品は相変わらず読まれているのですよ。古典と呼ばれる作品はまさにそう。いい作品だからこそ古典として受け継がれているわけでね。
そういった意味で、新たな古典作品を生み出せないことが問題だし、スタイルの違いを揶揄してご満悦みたいな「自称高尚」の方々がガンな気がしますな。「こうあるべきだ」の「べき星人」。そういう人たちを置き去りにして世は変わっていくし、動いているものだし、文学ってそういう世相に合わせて変化してきたもんだと思いますがね。今、古典作品と呼ばれているものは、発表当時は異端であることが多いということがその証明。
敵をつくったほうが評論家のメシのタネは増えるとはいえ、なかなか古臭くてステキです。