情報はすぐ使うヤツに集まる
最近は弊ブログで食べ歩きの記録をよく載せておるわけですが、積極的に記事や写真を載せるようになってから、ちょっとした変化が起きております。
うまい店情報が集まるようになった
行ってみたい店は「行きたい店フォルダ」をつくって情報を整理しているのですが、あちこちの店に行っても行ってもフォルダが空にならない。それは行く店の数以上に、行ってみたい店の数が増えているから。行きたい店情報が集まるからなんですよ。
ただ、情報の集め方はそんなに変わってないんです。実際、自分自身で見つけたり、「お、いいじゃん!」と思う店の数は変わってない。こういう部分の生活とか行動パターンは変わってないので、変化があるわけがない。じゃ何が違うかというと、うまい店情報を教えてもらえるようになったのです。「この店いいよ」「あそこうまいよ」「一度行ってみてよ」と、人から教えてもらう機会が爆発的に増えた。寄せられる情報量が劇的に増えたのですよ。
しかも本当にうまい
量が増えたとなると質、情報の精度、即ち実際行ってみてうまいかどうかが気になるところですが、これがまた問題のないところがうれしいところで。どれもこれもうまいのです。
例えば山田屋。ここはgkojaxさんに教えてもらった店。
- (過去記事)雨の日にこそ食べ歩き - (旧姓)タケルンバ卿日記 2008-08-05
あるいは和よしの。id:rtx1000さんから聞いた店。
- (過去記事)チキン野郎ナイツ - (旧姓)タケルンバ卿日記 2008-09-12
他にも佐野ラーメンの麺龍とか、焼肉食べ歩きで寄った堺の昌久園など、挙げればキリがない。どこも当たりで、貴重な情報を教えていただいたことに感謝感謝感謝でございますよ。ホントに。
情報が集まるようになった理由
ま、でもこうなるようになったのって、いくつか理由があると思うんですよね。
いろんな人に会ったから
山田屋のケースも、和よしののケースも、オフ会のときに「うまいメシ話」になり、その流れで教えてもらったお店。そういう意味で、オフ会という出会いの場があったことって大きいと思うんだよね。会ってなければ聞いてないだろうし、実際会わずとも、お互い何の関係もなければ知りえないから。
そういう意味で、交友範囲の広がりというのは、情報の広がりにつながるんだと思う。
キャラクターが認知されたから
もうひとつ、オレが食い道楽であることが認知されたことも大きいと思う。食べるのが好きで、食べ物の話も好き。そういう人間と認知されたことで、そういう話題にもなりやすいのかなあと。同好の士も集まりやすいだろうし。わかりやすいキャラでござんすよ。
こういう理由が大きいんじゃないかな。
「大事な観点が抜けてる」
と、自分では思ってたのだが、友人に言われた。
「それも理由だけど、情報が集まるようになるにはそれだけじゃない」
「大事な観点が抜けてる」
と。
「情報は使う人のところに集まる」
「じゃ、その抜けている観点とは何じゃろな?」と、それを尋ねたところ、とてもシンプルな答えだった。
「オマエが実際にその店に行くことが大事だ」
「情報は使う人のところに集まる」
「オマエに教えれば実際にその店に行く。だから教える。行かないヤツには教えない」
すぐ行くヤツに教えたい
これはなかなかにハッとする指摘でした。「情報は使う人のところに集まる」の対偶は「情報が集まらないのは使わない人」ということ。使えば集まる。使わないと集まらない。言われてドキッとした。確かにそうだよ。そういうところがある。
これは自分が情報を渡す立場になったときを考えるとわかりやすい。誰かに自分がうまいと思う店を教える。一方に教えればすぐ行くヤツがいる。もう一方には教えても行かないヤツがいる。どちらに教えたいかと言えば、答えは明らか。すぐ行くヤツの方に教えたい。教えても行かないヤツより優先度が高い。
使われたことが見返り
ある意味、これは情報に対する見返りなのかもしれない。「教えた」という行為に対してきちんと使われたか。そこに教え甲斐はあったのか。自分の手間がきちんと報われたのか。それを実際に使用されたかどうかで判断する。金銭的な対価とはまったく別の話。「使われた」という見返り。
そしてそれは、教えたときからのタイムラグが少なければ少ないほどいい。情報はすぐ使われるほど見返りが大きい。店を教えたときに、早く行ってくれるほどうれしい。そこに金銭は発生しなくても、情報を教えた側にとっては十分な満足感がそこに発生しうる。いや、むしろお金よりうれしい感覚があることも多いんじゃないかな。少なくても自分はそうだ。自分が教えた情報が使われるとうれしい。素早く使ってくれれば特にうれしい。そしてそれが役立ってくれれば尚更うれしい。
ブログなんかまさにそう。いい形で自分が出した情報を使ってくれるとうれしい。対価の問題じゃない。使ってくれたことがうれしい。そうなればまた発信したくなる。そうした場合に相手が特定され、尚且つその人物にアクセス可能であれば、尚更その人に情報を渡したいと思うのは自然なんじゃないかなあ。んだ、それが自然だっちゃ。
情報は川の如くなり
つまり情報ってのは溜め込んじゃいけないのだ。使わなければダメなんだ。絶えず情報を動かす。流し続ける。川の流れと同様、常に流してなければならない。溜めると澱む。流れなくなる。使い物にならなくなる。やがては上流からの流れも絶える。
流し続ければ、情報を使い続けていれば、その分の新しい情報は流入してくるし、情報の鮮度も保たれる。新しい情報を手に入れるには、手持ちの情報をどんどん使わないとダメなのだ。情報を集めただけで得した気分になってはいけない。きちんと使い、自分が得をする。そして情報がきちんと使われたことで、情報源に得をした気分にさせなきゃダメなのだ。発信し甲斐を持たせないとダメなんだ。
「最近、うまい店情報がよく集まるようになったんだよね」という何気ない話から、妙な情報論な発展。情報に対する貴重な教訓を得たのでした。情報はすぐ使うべし。うまい店を聞いたらすぐ行くべし!
……胃袋が持たねえ。