(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

昨日の件についてのお詫び

昨日の記事の件につき、あらためて関係各位、タケルンバ卿日記をいつもご覧になってくださる方々、そして偶然目にしてしまった方々にお詫び申し上げます。どうもすみません。私の文章で多くの方々を傷つけてしまったようです。いかなる弁解もできません。あらゆる責は私が負います。
すべては私の浅慮。想像力の欠如。無知に起因しております。人の心をわからない、愚かさに起因しております。
ああいう記事を書くとどうなるか。その発想がなかったとしか言えません。まして、私ひとりで生きているならともかく、こうして人のつながりの中で生きているわけですから、方々への迷惑や、皆さんに与える心の痛みを想像してしかるべき。そういうことがわからないという時点で失格。偉そうなことを書く資格がありません。
今回、様々なご指摘を頂戴しました。「気にするな」というフォローも頂戴しました。が、今回は「気にする」を選択させていただきました。「気にするな」というのは「何も失ってない」「むしろよくやった」というありがたい励まして、それはそれでうれしい。力になりました。しかし、今回は失ったものがあまりに気がかりなのです。大事な人ほど、大切な人ほど、信頼をしていた人ほど大きい失望を与えてしまった。
一番堪えたのは「人にアドバイスする資格がない」という指摘でした。「自分を大事にしろ」と言えないと。もう信じられないと。自分のことを棚にあげて、どの面下げて人に言うんだ。その指摘はまことにもっともな話で、ぐうの音も出ませんでした。人を傷つけているのに気付かない人間のやさしさなんて無価値だ。そういう当たり前の事実に思い当たりました。自傷行為を続けるマッチポンプのような人間に、人の傷なんてわかるはずもない。
また、リアルなつながりがある人々にショックを与えた。これも大きかった。自分がよくしてもらっている人、仲良くしてもらっている人、そして私自身も大事に大切に思っている人たちにショックを与えた。失望させた。ここに自分としての絶望を感じました。
絶望ついでに言うと、昨晩、私の誕生日を仲間に祝ってもらったのですが、この件のショックもあって、抜け殻の状態になり迷惑をかけた。空元気を装い、落ち込んでいることを悟られまいとしたけれども、やっぱり無理だった。どこかには滲み出てしまった。まして、せっかく仲間のひとりより心からの「おめでとう」をもらったのに、心ここにあらずで、言ってもらったことに気付かなかった。覚えていなかった。心を閉ざしていた。そしてそのことで大事な仲間の心を傷つけてしまった。今回の件で十分に傷つけていたというのに。
天涯孤独な自分のような人間にとり、人に頼られる関係、あるいは大切な仲間との関係というのは、自分の数少ない居場所です。そこしかない。他に場所がない。あっても自分ひとりの空間のみ。また、頼られる自分、仲間がいる自分というところでアイデンティティを保っているところがある。もはや家族もいないし、彼女がいるわけでもない。そんな中で孤独感を感じずに生きてこれたのは、周囲に恵まれてきたからで、まわりがあって自分がある。そこにアイデンティティをおいてきた。
色即是空
私は空なんです。何もない。何もない空っぽの人間だからこそ、まわりの人間との関係性によって自分ができていた。そこにアイデンティティがあった。それを自ら踏みにじるという行為は、単なる自傷行為だった。自分で自分の居場所を、存在を、アイデンティティを破壊する行為をしてしまった。何より大切なものを傷つけてしまった。ひとりよがりな行為のせいで、浅はかな行為のせいで人を傷つけた。そして結果的に自分をも。そしてさらにまたもや人を傷つけた。自分の誕生日を祝ってくれる仲間を。一番受け入れるべき心を。尊い心を。それに気づいた時、あまりの絶望感に何もできなかった。空虚でした。うつろに中空を見つめるのみ。ただ時間が流れていくだけ。何もない無価値な時間が、ただ流れていくだけ。
正直、すべて捨てようかと思った。タケルンバであることを辞めようと思った。引きこもろうかと思ったし、すべての縁を切ろうと考えた。自分のせいでこれ以上は人に迷惑かけたくないし、まして、さらに人を傷つけるようなことはしたくない。ブログをはじめる以前の生活に戻ればいい。そう考えた。別にネットがなくても生きていける。何の問題もない。
ただ、いくつか約束があった。今日、飲む約束がある。明後日、コーヒーを飲む約束がある。カラオケに行こう、焼肉食べよう。静岡で会いましょう。うちへ来て下さい、泊まってください。みんな自分に対して向けられたメッセージだ。自分を待ってる人がいる。自分に会いたいと言ってくれる人がいる。勇気を出してメールを、リプライを、メッセージを送ってくれる人がいる。お声をかけてくれる人がいる。誘ってくれる人がいる。
そう思うと涙が止まらなくなった。何と自分は人に愛されているというのか。「人に会いたい」というひとりよがりの発想をしているうちは気付かないことだった。「タケルンバに会いたい」と言ってくれる人がいたのだ。自分が会いたいだけじゃ人に会えない。会いたいと思ってくれる気持ちが相手にあるから人に会える。当たり前じゃないか。
私は這ってでもそれに応えたい。応えなくちゃいけない。それが自分だ。励ましてくれる声に応えたい。元気を出してとの声に応えたい。ラブコールに応える自分でありたい。前に歩き出さなくてはいけない。進まなくてはいけない。放り投げてどうなるというんだ。タケルンバじゃなくなってどうする。それこそ最大の裏切りではないか。縁を否定してどうする。過去を否定するとは、自分が一番嫌っていたことだし、記事でも書いていたことではないのか。どんな過去であろうと前に進むことで未来は切り開かれるのではないのか。
今回の件で大きな失望を与えたことは事実だし、それは今更くつがえしようがない。それは事実。私はそれを終生背負うし、この苦味を忘れない。この記事を読んで気持ち悪いと思う人もいるだろうし、「だったら最初からあんな記事書くな」というのが正しいところだ。違和感感じる人もいるだろう。失ったものは戻らない。信頼、信用、期待、安心感。こういうプラスのものほど失うのはたやすい。そして私は自らそれを放り投げた。後悔している。
しかし後悔しているからこそ、タケルンバでいることを続けてみようと思う。タケルンバであり続けてみることにする。こういう辛気臭い記事を公開することで、皆さんにはさらなる迷惑をかけますが、どうか許して欲しい。多分、最初で最後。同じ過ちは二度と繰り返さない。明るく愉快で気軽に読めるブログに戻る。どうかしておりました。目が覚めました。誕生日にこういう出来事があったというのは、自分にとっていいきっかけだったかも知れない。新たに生きますよ。気持ち新たに。新生タケルンバとして。
改めて関係各位、タケルンバ卿日記をいつもご覧になってくださる方々、そして偶然目にしてしまった方々にお詫び申し上げます。ご心配をおかけしたこと、ご心労に、ご配慮に、心よりお詫び申し上げます。今後も更新にどうかご期待ください。期待に応えるタケルンバでありたいと思います。今後ともよろしくお願い申し上げます。
2008年12月17日 タケルンバ

追記

真摯な言葉を投げかけ、厳しく叱責してくれた友人に感謝する。ありがとう。