(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

責任なしに自由はないよ

むしろ逆だと思ってるんだ。

(その意味では――再三引き合いに出して申し訳ないし必ずしも批判ではないと断るけど――タケルンバさんが名乗っておられるような自由主義とは違う。あれは、個人の無責任に基づくシステム論的な自由主義なので)

ある自由主義者の肖像 - 地を這う難破船

自由であるためには責任が必要なんだとね。

2年ほど前にこんな記事書いてるくらいで。

「他人の自由を否定するものは、自ら自由を受けるに値しない」

これ、再三書いてることなんだけど、これが信条。自分が自由でいたいのだから、他人の自由も尊重する。自分が思想・信条・主義・主張・宗教その他一切に関して自由でいたい。だから人の思想・信条・主義・主張・宗教その他一切を尊重する。こういうことなんですよ。自分が守りたいものは人に対しても守る。そういうのって基本的な責任であって、それができないのであれば自由を求めちゃいけないと思ってるんだ。だから自由と責任はセットで、特に何も言わなくても「自由主義=自由責任主義」だと思ってるんです。
もちろんこういう考え方自体俺の勝手。人に押し付けるつもりはない。あくまで「俺的自由主義」。俺の主義主張なので、人にどうこうしたいわけじゃない。ただ、俺的なものだから、俺の中では正しい。修正する余地はあるし、考えを改める余地は十分にあるけれど、そういう必要性を感じない限りは、今の考え方が俺の中では正しい。それが学問的に正しいか、体系的にどうかなんて話はしったこっちゃない。「俺はこう思ってる。以上!」でいい。俺の考え方の正しさを、俺以外に対して証明する必要はない。
ただ、言っていることと行動は一致している必要はあると思ってる。自分の考え方が正しいことを証明する必要はないが、考えと行動が一致していることを示す意義はあるのではないかと思ってる。自由の重要性を説く人が、それに反する行動をとれば、自由という価値観が揺らぐことになりかねないわけで。自分が重要視する価値観があればこそ、その価値観に見合った行動をとるべきではないかと。その価値観が正しいかどうかの議論はさておきね。
なるべく言行一致の方が望ましいと考えている。それが責任だと思っている。その責任の果たし方を必ずしも人に要求しないが、そういう感じで行動していくと自分がうれしいので、まずは自分が行動する。責任は大事だと思うが、大事であるという主張を人に押し付けたり、それに基づく行動を要求せずに、淡々と自分の行動で示す。これでいいんだと思っているのです、はい。
というわけで、「個人の無責任に基づくシステム論」というのは俺と相容れないと思いますよ。俺以外の人が無責任であっても仕方ないとは思っているけど、自分はそうしたいと思わないので。無責任でありたいという人の自由意思は尊重するけど、自分は責任を持ちたいという意思は通させていただきますよ。それが俺の自由だから。