(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

往復発想で行こう

レストランなどの外食業界で、口すっぱく言われることがある。

「手ぶらで戻ってくるな」

お料理ができた。それをテーブルに運ぶ。手持ちのものがなくなる。手ぶらになる。その状態のまま戻ってきてはいけない、という教えがある。

仕事は往復で

つまりこういうこと。完成した料理を持っていくという作業は片道分。料理を持っていく時点で、もう片道分は何もない。そのもう片道分の仕事を自分でつくりましょう、見つけましょう、やりましょう。仕事は往復でやりましょう、ということなのだ。何もしない片道をつくってはいけないということなのだ。
確かにこれは物理的な作業量を考えても理にかなっている。料理を運ぶ、皿を運ぶということは、食器が一組出る。その帰り、何かお皿を下げてくれば、出して下げるだからプラマイゼロ。一方、料理を出すだけで終われば、使用している食器が増えるだけで、片付けが進まない。作業的な手間が減らないから、残りの労働量は増える。これが数回に及び、従業員が多くいるとなると、この蓄積によって多くの時間を失うことになる。

「死に時間」をつくらない

調理場を出て、調理場に戻る。片道には料理を運ぶという使命があり、もう片道には使命がない。こういう場合、何もしなければ片道分の時間が無駄になる。「死に時間」になる。何かをすれば「生き時間」になるのに、何もしないことで「死に時間」になる。
それであれば何かをした方がいいのだ。何でもいい。何かをした方がしないよりはマシ。

意図のない行動をしない

棒立ちにならない

違う言い回しで言うとこういう感じになる。ただ調理場に戻るだけという意図のない行動しない。ただ突っ立っている時間をつくらない。何かをする。何か動く。どこかを動かす。動かせないなら考える。手足がダメなら頭。頭がダメなら手足。さもなければしっかり休む。体力を回復させる。まるで意図のない行動、まるで動きのない時間をつくらない。それが「生き時間」ということ。

何かできることはないか常に考える

そしていつも往復で作業するには、そういう思考を常にしていかないとできない。そういう視点を持っていないとできない。空いた食器はないか。飲み物は空になってないか。注文しそうなお客様はいないか。飽きてるお子様はいないか。こういう思考をしているからこそ、片道の作業ができる。もう片道が無駄にならなくなる。無駄に終わらせないという発想をするから、無駄に終わらない。無駄を嫌うことで、無駄が生まれなくなる。「死に時間」を「生き時間」に変えようとする。

「ついでに」「おまけに」「余計に」をちょっとだけ

外食以外の世界だと、こういうことに置き換えるといいと思う。ついでに、おまけに、余計にの発想。つらくない範囲で、今まで無駄になっている部分に少し意味合いを持たせる。意図を持たせる。
飲み物を買いに行くついでにゴミを捨てに行く。ペーパータオルで手を拭くおまけに流しの濡れたところを拭く。自分の作業スペースだけ掃除すればいいのだけれど、隣のスペースもちょっとだけ掃除する。
どれも大きく作業量は増えない。手間もそんなにない。ついでにできること。劇的に効果があったり、意義深いことではないけども、積み重ねることで意味は出てくる。少なくても効果はゼロじゃない。
またこういう視点で考え、実際に行動することで、他の場面でも同じような思考ができるかも知れない。自分は何ができるのか。そういう役割にに対する認識が深まるかも知れない。
片道で終わらせない、往復発想。「ついでに」の発想を大切に。