(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

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被災地の今を訪ねる (3)

被災地の今を訪ねる (2) - (旧姓)タケルンバ卿日記 より続きです。
福島原発事故による立入禁止区域を迂回し、南相馬に。
母親の実家は、今は原町区となっている沿岸部の萱浜(かいはま)という場所にあった。海に向けてなだらかに下る平地の集落で、地形に起伏があまりない。そのために、津波の被害もまた大きくなってしまった。

海沿いは今もなお瓦礫置き場に。

瓦礫は分別され、山積みにされていた。このような山が無数にある。このあと、海伝いに東北を走ってわかったことだけれども、これでも南相馬の瓦礫処理は進んでいる感じだった。このような場所が東北には無数にあり、また分別にたどり着いていない場所だってある。
分別が進んでいない場所では、まだ土砂の山という状況のために、周囲が埃っぽい。埃っぽさがないだけ、南相馬は震災の後片付けが進んでいた。あくまで「相対的に」ではあるけれど。

驚くのはこうした車の山もあることだった。この地域だけで、これだけの車が津波に流された。

それはもうすさまじいエネルギーというしかなく、また、こうした光景もこれからの旅路において無数に見るものなのだった。

砂浜はもう手付かずというか、放置されていた。海水浴場の砂浜ではないため、片付けの優先順位としては低いし、またそういう場所であるから手前に瓦礫置き場がある。
奥のテトラポットのところは、昔は海だった。昔は消波堤の役割を果たしていたテトラポットが、海岸線の役割を果たしていた。これも後に繰り返しわかることなのだけれど、震災後、沿岸部では砂浜が広がり、港が浅くなり、また川面が高くなっている。
津波の影響、ことに引き波の影響で土砂が海に流れ、その分、浜が広がった。昔、遠くに見えたテトラポットが近くに見えるのは、こうした津波の影響。

砂浜の内側にはこんな感じで海水が残っている。元々海だった場所であるから、水も引きにくい。元々遠浅の海ではあったが、それがさらに進んだ感じだ。
集落の奥、小高い丘にはお墓があった。自分のご先祖様にも手を合わせていこうと、記憶を頼りにお墓に向かったが、お墓がない。

どうやらお墓があった丘全体が津波被害を受けたようだった。お墓の入口があった地点のガードレールでそれがわかったし、農道の中央に新たな墓地ができているのがすべてを説明していた。
津波は心の拠り所まで壊してしまった。しかしそれでも地元の方は、そこから立ち直ろうとしている。
真新しいご先祖のお墓に手を合わせ、萱浜を後にした。
(つづく)