(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

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続々・被災地を実際に巡っての雑感

被災地を巡って早くも1週間が経とうとしています。

動き出した浜通り

あの震災、そして事故により、福島原発の横を走る国道6号線は封鎖され、常磐線も不通となり、沿岸部の南北への交通は断たれました。
福島県には浜通り中通り会津という区分があります。沿岸部は浜通りと言われ、「浜通り」の由来となった陸前浜街道、現在の国道6号線が南北を通り、南は茨城県の水戸で水戸街道となり東京まで続き、北は名前通り陸前の国であった宮城県の仙台までをつなぎます。
国道6号線浜通りの由来であり、ひとつのアイデンティティであり、重要な交通路です。相馬や双葉などの相双地域から南に行けない。いわき市に出れない。その先の水戸にも出れない。東京に出るルートは中通りをまわるしかない。大きな迂回を余儀なくされる。
そもそも浜通りなのに中通りを経由するというところに根源的な矛盾があります。

浜通りは海沿いで平野が多く、国道6号線常磐線を中心にした地域。
中通りは山がちで盆地などもあり、国道4号線東北本線を中心にした地域。
両者は戦国時代や江戸時代でも別の大名、別の藩として統治されており、現在は福島県という同じ行政区分ではあるものの、浜通り中通りではかなり事情が異なります。
また、南北に街道はあるものの、東西に枢要な街道がなかったため、例えば浜通りでは茨城県の北部や宮城県の南部の方が親和性がありますし、中通り会津にも同様の傾向があります。
そういうところで、中通りへの迂回を余儀なくされるというのは、手間であるし、面倒であるし、それ以前に違和感のある出来事なのです。浜通り浜通りでなくなってしまっているのです。
ですので、国道6号線の復旧の意味合いは、相双地域にとってはものすごく大きく、アイデンティティの復活と言えるかもしれません。たかが道路ですが、その交通路によって栄えてきた歴史があるわけで、その歴史を取り戻したと言えるでしょう。
震災から3年半をかけ、浜通りはやっと前進を始めたのかもしれません。

時は止まっていない

「死の町」という表現があります。「時が止まったようだ」という表現があります。
福島原発の周辺はそういう表現が合うのかも知れません。そういう解釈もあるでしょう。しかし見てきた人間として思うのは、福島原発の周辺は決して死んではいないし、時は動いています。しかしそれは必ずしも前向きな話ではありません。

むしろ現実は残酷で、あの震災、あの事故からの時が町並みを覆い尽くす草木という景観に反映されています。道路を建物を蔓がつたい、草が覆っている。アスファルトが割れ、住まいが覆い尽くされ、屋根がぼろぼろになり、そこに風雨が容赦なく。

3年半という時間は紛れもない負の影響を与えています。人の手が入らない。入れられない。何も出来ない。この影響が今後の復興の足かせになることは想像に難くありません。
除染をし、放射線の影響を取り除き、それでやっと人が入れるようになる。線量が下がれば滞在もできるようになるだろうし、いつかは住むこともできる。
しかし住むためには家がいる。その家は今どうなっているか。他の被災地が被災直後にやったようなことをこれからしなければならない。瓦礫の片付け、汚泥や土砂の搬出、屋根や壁の補修、散らばった家財道具のゴミ出し、家の洗浄・消毒、家財の再購入。
震災から時が経ち、記憶も色あせつつあるこれから、こうした作業に取り組まないといけない。今からそれができる体力、意気込みはあるのだろうか。それを支援するボランティアなどは集まるのだろうか。それをするためのお金はどうする? そして、いつそれが可能になるのだろう。待てる? 待てない? 待つのはいいが、じゃあどれくらい?
このあたりの話は時が経過するからこそ難しい問題であります。時は止まっていない。止まっていないからこそ、問題なのです。

緑は芽吹き始めた

一方で光明もあります。かつて見なかった光景がありました。

南相馬では緑の風景が広がっていました。畑のそこかしこに人々が集まり、作業をしている風景がそこかしこにありました。
人が住める地域では、人々によって様々な取り組みが行われ、時がたしかに動いています。昨年、一昨年にはなかった風景がそこにはあり、確かな前進を感じさせてくれます。
また、こうした風景は被災地全体で見ても例外的でありました。津波の被害を受けた場所のほとんどは放置されているのが実情です。

あとはコンクリートで堤防が作られているか、土のうが積んであるか、あるいはかさ上げされているかというところ。



枯れた草、コンクリート、土のう袋、かさ上げされた土。こうした色が目立つわけですが、その中に緑色はありません。
毎年福島県南相馬から、岩手県宮古までの海岸線を車で見て回っているわけですが、この緑芽吹く風景は南相馬でしか見ることができませんでした。福島県の相双地域は原発事故という人為的な被害を受けているわけですが、その一方で、人為的な取り組みによって自然を再生させています。住民の方々の努力によって緑の風景が復活しつつつある。皆さんの努力に敬意を表したいと思います。

こちらの記事を合わせて読んでいただくとわかりやすいかもしれません。

常磐線の明暗

国道6号線の復旧という大きな一歩があるように、道路事情に関しては今後も光明が見えています。

常磐富岡ICまでだった常磐自動車道は、年内に南相馬から仙台の北側が開通し、来年のゴールデンウイークには常磐富岡から南相馬の間も開通を予定しています。悲願だった浜通りの高速道路の完成が現実になろうとしています。
一方で、同じ陸路である鉄道の状況はというと、見通しが立たない状態です。

竜田 〜 小高 運休(再開方針未定)

相双管内の主要道路・鉄道の復旧及び開通予定 - 福島県ホームページ

福島原発に近接する場所では、運転再開の目処が立っていません。「再開方針未定」とあるように、同じ地点での復旧を目指すのか、あるいは移設するのか、その目標となる時期など全てが未定なのです。
この点で福島原発による明暗が分かれています。

JR東日本は、東日本大震災で被災して運休している常磐線相馬(福島県相馬市)―浜吉田(宮城県亘理町)間の復旧工事に、2014年5月7日に着工したことを明らかにした。

JR常磐線、2017年春までに全線復旧へ :日本経済新聞




津波の被害を受けながらも、常磐線の移設が決まり、復旧工事の着工にこぎつけた相馬より北の地域。


直接の津波被害はなくとも、福島原発の事故という間接的な津波被害のために見通しが立たない南相馬以南の地域。
常磐線というひとつの路線を、福島原発が間を断ち、明暗が分かれています。

駅を覆う蔦、線路に浮かぶ錆。時の経過はあまりにも無情です。

住宅着工に見る不安

被災地沿岸を走っていると、そのほとんどの場所で被災前と姿をかえたまちづくりを行おうとしていることがわかります。

津波被害を受けた地域から集落ごと移設する。あるいは、同じ場所と使うならばかさ上げなどの措置をとる。再び同じ被害を繰り返さないために、あらゆる手立てが講じられています。
しかしながら、これは私の杞憂かもしれませんが不安な場所があります。

特に仙台から近く、人口も16万人いる石巻市は、各地を見た中では最も復興が早いように見えました。鉄道も動き、港も動き出し、住宅も再び建ち始めている。
唯一の懸念は、果たしてそこにまた住宅を建てていいものかというところ。津波の被害を受けた地域に再び住宅が作られようとしていたわけですが、その安全性はどうなのか。この点は気がかりです。

続・被災地を実際に巡っての雑感 - (旧姓)タケルンバ卿日記

昨年も書きましたが、そのひとつが宮城県石巻市。沿岸を走る国道398号線、女川街道沿いに住宅が次々と建てられていました。



同じ地点のGoogleストリートビューを並べてみました。上から2011年7月、2013年5月、2014年7月です。道路の向かって右が海側です。
震災直後は右側にも建物が残っていますが、それが2013年の時点では撤去され、道路を挟んで左側には2013年、2014年と新しい建物が増えているのがおわかりいただけるかと思います。
果たして津波被害を受けた同じ場所に建物を再び建て、そのまま住んでいいものなのか。その地に住んでいない私にとっては、なかなか答え難い問題ではあります。ただ、他の地域と見比べていると、特に対策がないように見える再建設割合が石巻の場合はとても高く、違和感を感じることも事実です。
旺盛な住宅着工は順調な復興の反映でもありますし、長い目で見て、その自治体に安定をもたらします。少なくても住民流出という自体は避けられるわけですし。しかしそれでいいのだろうか。あまりに無対策すぎやしないだろうか。このあたり歯がゆい感情があります。何とも表現しづらいですけども。

仙台中心から各被災地へ

今回は2年ぶりに仙台に泊まりました。2年前の異様な喧騒はなかったものの、相変わらず街は賑わっているようでした。


こちらでグラフを示したように、一時期の過熱感はありません。予約も比較的楽にとれました。
そしてこの「予約も比較的楽にとれました」という点が以前との大きな違いです。以前より宿泊の選択肢が増え、そのために相対的に仙台においての宿泊過熱感が薄れている。以前は仙台を拠点に被災地へと行かねばならなかったものが、今は被災地それぞれに宿泊施設が整備されつつあり、仙台を拠点にする必要性が少なくなってきています。

三陸地域のビジネスホテルで調べればわかりますが、近年開業したもの、あるいは再開にこぎつけたもの。以前と比べて宿泊事情はだいぶよくなりました。

今後も釜石などでホテル開業が予定されています。今後は仙台を拠点とした広域的な取り組みではなく、各自治体を中心とした取り組みに軸足を移すのではないでしょうか。そしてそれを可能にするインフラがやっと整ったのではないでしょうか。

深刻な労働力不足

相変わらず労働力不足は深刻なようです。

農林水産省国土交通省では、公共事業に関わる労働者の賃金を都道府県ごとに調査し、目安となる労務単価を設定しています。

震災における復興工事需要の急増のため、人件費が高騰し、政府もそれに合わせて補正をするなど対応している状態です。

その結果どういうことになっているかというと、詳しくは上記国土交通省のPDFファイルを参照していただければわかりやすいのですが、福島・宮城・岩手の三県で隣接する青森・秋田・山形などより単価が高くなり、職種によっては東京よりも上になっている。
そうした場合に、これら被災地に隣接する地域では、地元で働くよりは被災地で働いた方が賃金が高くなる。被災地隣接地域において空洞化が発生しかねません。
実際に被災地を行き交うダンプのナンバーを見ていると、以前よく見た関東近県のダンプは減り、福島・宮城・岩手の地元ナンバーの割合が増え、そして北海道や青森、秋田、あるいは九州のナンバーが目立ちました。
地元の業者としては、地元需要があり、且つ高単価なので地元から出る必要はないということでしょうし、そもそもの設定単価が東北に比べて高めの関東地方などはともかく、北海道や東北の各県の業者にとっては、地元より高単価の仕事が望めるので進出する動機足りえる。
2015年の労務単価はアベノミクスとの絡みもあり、さらなる上昇が見込まれています。ここで被災地と隣接地域で価格差がさらにつけば、隣接地域の労働力の空洞化は避けられないでしょうし、かといって価格差がなければ労働力は被災地に集まらない。
被災に光が当たれば、どこかが暗くなる。限りのある労働力というものを考えるにあたり、そろそろ復興工事の功罪を検討する場面に差し掛かっているような印象を受けます。

仮工事から本工事へ

「仮」という看板が外されつつあるように思います。
例えば仮設住宅。高台などの移転工事が各地で行われています。道路や橋梁などの仮復旧されたものが新たに作られ、本復旧し、そういった計画が各地で進んでいます。
その中で、やはり治水工事は遅れ気味で、やはり河川の状態は見ていて不安になります。被災地では積まれた土のうは見慣れた光景で、それは昨年、一昨年と変わりはないのですが、その土のう袋は確実に劣化し、場所によっては中に入っている土の流出が見られます。

そもそも土のうはコンクリートなどで本復旧する仮の対策で置かれるもので、それが今もある。そして置いたままにせざるをえないというところに悲しいかな現実があります。
水辺という考え方で行けば、海岸線から取り組みが始まり、少しずつ内陸にということで、河川は後回しになっているということなのでしょうが、震災が時が経つに連れ、その後回しのリスクが顕在化してきたように感じます。

格差をどう埋めるか

率直に言って、富める自治体とそうではない自治体の差は年々開いているように見えます。そして復興が進んでいる地域と、復興が遅れている地域の差は拡大しているように見えます。
このあたりは地の利もあります。例えば同じ三陸地方でも、岩手県よりは宮城県側の方が復興スピードが早いように見えますが、その岩手県の中でも釜石市は復興道路の整備度合いが高いこと、釜石線が動いていること、その2点に加え三陸地方としては数少ない東西の交通の要衝となっていることから、進捗が早いように見えます。東北自動車道から釜石道が延びていることも後押ししています。
問題はそういう有利な条件がないところ。例えば釜石市の北にある大槌町、あるいは山田町。沿岸を走る山田線の宮古から釜石間は不通のままになっている。またこの地域には東西につながる大きな道路がない。南に釜石、北に宮古という要衝があるため、挟まれたこの地域はどうしても空洞化が起きやすく、工事が後回しになりやすい状況がある。しかも地元単独で何かをできるような予算規模もない。
こうした地域にどう目配りしていくか。埋めようがないこの条件の差を、現実的な対応としてどうするのか。地元単独ではできない以上、広域としての対応をしなくてはなりませんが、それを県がやるのか、国がやるのか、あるいは何もしないのか。

三陸特有の地形問題

三陸地方のリアス式海岸という地形もまた障害になっている面もあります。それぞれの入り江に集落があり、町がある。そしてそれぞれの間には山がある。海岸線を走っていると、山を上り、山を下り、そうしていくと海が見え、町に入るのが三陸の特徴なのですが、間に山があることで、地図上は隣接していても、入り江単位で生活圏が別のものになりやすい。
それぞれの自治体で同じような問題を抱えているのに、入り江が違い、集落が違うため、それぞれの単位で問題を解決しなければならず、しかしながらそうした単位では問題を解決するに至らず、問題がそのままになっている。また、こうした重複の問題を解決するために市町村合併をし、行政単位を大きくしたのだけれど、行政単位を大きくした結果、集落ごとの利害が異なってしまい、問題解決の決定を下せなくなっていることもある。何事も問題解決には順番があるのだけれど、その順番という明示化されたものが出た瞬間に、それが反発の材料となる。このあたりは誠に悩ましい問題であります。

民主的に決めることはできるのか

正直、潤沢なお金があれば解決する問題ばかりです。今、残っている問題はそういう話です。しかしながらそれがない。で、あれば順番をつけて少しずつということになりますが、今度はその決定過程が問題にある。限られた資源の配分ということになると、誰にとっての最適化なのかという観点が生まれ、その「誰にとっての」に選ばれなかった場合の怨嗟と反発という要因も出てくる。
このあたりは利害があるため、話し合いでは解決しにくい問題だと思われます。誰かしらの強力なリーダーシップ、カリスマ的指導がないと難しい。あるいは極端な話ですが独裁的な決定であるとか。それこそさいころの目でエイヤと決めるとか。山ひとつを挟んだ集落ふたつの自治体があるとして、どちらかが有利になり、どちらかが不利になる。そうした状況においての決定の難しさが眼前にあるように思うのです。
とはいえ、こうした具体的な問題点が出てくるようになって来ているのは前進という考え方もあります。行き詰まる程度には前に進んだ。あとは壁をどうするか。
これで3年連続で被災地を巡ってきました。来年もまた行きます。変化を確かめに。