(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

すべてゲームのせい

なんか、どうしてもゲームのせいにしたいみたいね。茨城県荒川沖駅で起きた殺傷事件。

金川容疑者は、100本近いゲームが山積みになった自室でほぼ引きこもりの状態。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080326/crm0803262028036-n1.htm

殺人容疑で逮捕された無職金川真大(かながわまさひろ)容疑者(24)は殺りくゲームなどに没頭しては、うまくいかないと当たり散らす姿がたびたび目撃されていた。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080325-OYT1T00790.htm

逃走中はリュックサックを所持していたが、中には着替え、現金、携帯型のゲーム機やゲームソフトが入っていたという。

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080327k0000m040160000c.html

対戦ゲーム好きだったという8人死傷事件の金川真大容疑者が23日に逮捕された際に持っていたリュックサックには、携帯ゲーム機ソフトが入っていたことが茨城県警の調べで分かった。刀を振り回したり、手裏剣を飛ばしたりしながら敵を倒す内容のアクションゲームで、三浦芳一さんが殺害された翌日の20日に発売されたばかりだった。

http://www.asahi.com/national/update/0324/TKY200803240421.html

そうだね、プロテインだね。ゲームが悪いですよね、悪うございますよね。ゲームがなければこんな事件は起きなかったんですよね……本当にそう?
まあ、見事なまでの「ダメな帰納」。論理学のテキストなんかで「こんなのは非論理的ですよ」って書かれる典型的なパターン。こういう話でなんの検証もなく「ゲームのせい」ということにしちゃうセンスには頭が下がりますよ。大変に非科学的な話でありまして。ええ。

帰納」とは

推論方法のひとつで、逆は「演繹」。演繹は、一般的な事例からある一定の法則を見出そうとするもの。それに対し帰納は、個別の事例から法則を見出そうとする。

例を挙げると、1匹の黒いカラスを見る。ここから「すべてのカラスは黒い」と考える。これが帰納。簡単に言えば、小から大を考える方法。

  • 「見るハト見るハト、全部灰色」→「ハトはみんな灰色」
  • 「あの人もこの人も右利きだ」→「人間は右利きである」
  • 「会う人はみんな日本語を話している」→「日本語は世界の公用語

こういう感じ。ニュートンがりんごが木から落ちているのを見て、「ハッ、りんごに限らず、ものは何でも落ちるのでは」と万有引力を思いついたのも帰納。少ない事例、個別の事例から全体の法則を見出す。これが帰納

帰納」の問題点

さっき挙げた例を見ればわかるのですが、帰納は前提が正しくても、結論が正しいとは限らんのですよ。1匹のカラスが黒いからといって、全部のカラスが黒いとは限らない。黒いカラスが100匹いようが、1万匹いようが、1匹の黒じゃないカラスが見つかったら終了。1匹より100匹、100匹より1万匹の方が「全部のカラスが黒いかも」っていう可能性を高める効果はありますが、あくまで可能性。蓋然性の問題。たった1匹の反証で、はいサヨウナラ。

  • 「見るハト見るハト、全部灰色」→「白いハトもいるよね」→終了
  • 「あの人もこの人も右利きだ」→「わーたしピンクのサウスポー」→終了
  • 「会う人はみんな日本語を話している」→「英語しか話せませんが何か?」→終了

こうなるわけですね。

帰納」が正しいかを確かめるには

こう見ると「ダメダメじゃん、帰納」となるわけですが、実はそうでもないんですよ。一般的にはダメだけど、うまくいったときの破壊力がある。常識的な演繹も大事だけど、非常識な帰納も捨てがたい。個別の事例から全体の法則を見出すという大胆な試みであるからこそ、帰納は結構重要なわけですよ。
例えばニュートンの話でいくと、りんごが落ちたというたったひとつの出来事から、ものは何でも落ちるということを思いついた。これは非常に大胆なわけですよ。1個でも落ちないものがあれば終了なので。
ただ、これが正解であれば、もの凄く大きな発見なんですよ。演繹では「ものは全部落ちる」と言うためには、全部落としてみないといけない。全部落ちたから、万物には引力がはたらきますと。こういう常識的な話になるわけですが、こんなもんは全部落としてられんので、いつまでたっても見つからんわけですよ、引力が。で、見つかった頃には「当たり前だよ」ってなりますし。「全部落ちたんだから、そらそうだ」と。
ところが帰納の場合、大胆だからこそいいわけですな。1個で全体を見渡しちゃうわけで。たった1つの反証があれば終了するリスクはあっても、その反証が見つからなければ、それはそれは大きな科学的進歩になるわけですな。
しかし先ほども書いたように、帰納には問題点がある。前提が正しくても、結論が正しいとは限らない。りんごが落ちたことは事実だけども、りんご以外のものが何でも落ちるとは限らない。そこでどうするかと言うと、とにかく何でも落としてみるわけです。石はどうだ? 紙はどうだ? とにかく落としてみる、試してみる。もちろん黒いカラスの例で書いたように、どんなにたくさんの例を集めても、たった1匹の黒じゃないカラスが見つかれば終了するように、例を集めたって正しいとは限らないけれども、蓋然性は高まる。「おっ、正解っぽいね」となるわけですな。
で、この検証が実験なわけですよ。自然科学分野では実験。とりあえず試してみんべと。環境を再現してやってみんべと。一方、社会科学分野では統計とかになるわけですな。データや事例を集めて確認すんべと。大まかな傾向から判断できんべと。そういうことになるわけです。

事件と「帰納

翻って、今回の事件とゲームの関連。これは典型的な帰納的推論。直接の関連には言及していなくても、ゲームが犯罪発生に関連しているかの如く、記事がつくられている。

  • 「犯人は100本近いゲームが山積みになった自室でほぼ引きこもりの状態だった」→「ゲーム山積み・引きこもりはヤバイ」
  • 「犯人は殺りくゲームなどに没頭していた」→「殺りくゲームはヤバイ」
  • 「犯人のリュックサックには携帯型のゲーム機やゲームソフトが入っていた」→「携帯型のゲーム機やソフトを持ち歩いているヤツはヤバイ」
  • 「犯人は対戦ゲーム好きだった」→「対戦ゲーム好きはヤバイ」

こういうことでしょ? そしてこういうことを言いたいんだべ?

  • 犯人はゲーム好き
  • あるゲーム好きが残虐な事件を起こした
  • ゲーム好きはみんな残虐な事件を起こす
  • だからゲームは良くない

……そうか? これ、乱暴過ぎねえ?

統計による反証

もし、この理論が正しいとすると、ゲームが残虐な事件の理由ということになる。であるならば、ゲームのない時代の方が、こうした事件は起きていないはずだし、ゲームの少ない時代の方が平和だったことになる。

ゲーム少ない    ゲーム多い
 平和 ←−−−−−→ 危険

こういう相関があるはずですわね。マスコミが言っていることが正しいならば。ただ、これが間違っているのは、ネット上でも散々言われていることなのよね。凶悪事件は昔の方が多かったわけで。殺人事件の発生件数はこのようになっております。

1960年 2,648
1970年 1,986
1980年 1,684
1990年 1,238
2000年 1,391
2007年 1,309
(「犯罪白書」より作成)

またゲームの効果が一番出そうな少年犯罪なんかも減っているのよね。

これ見りゃ一発だよね。殺人事件は目に見えて減っている。ゲームのない頃が多くて、ゲームがある現代の方が少ない。しかめっ面で「ゲームの問題」「現在の病理」「最近の若者は」と言っている連中の世代の方が、よっぽど残虐で凶暴でクレイジーとすら言えますよ。単純に事件の数で考えればね。
それに、もし彼らが言うように、残虐なコンテンツがこうした殺人事件を引き起こすとするならば、コンテンツもなしに殺人事件を起こす時代のほうがよっぽどおかしいよね。そういう時代の方がよっぽど狂ってる。ゲームや映画やマンガなんかで見た具体的なイメージもなしに人を殺しちゃうわけだから。人殺しの才能としては、昔の方があったことになる。最近は残虐なゲームやホラーや動画、アニメがあってこの統計結果なのでねえ。ある意味、昔よりよっぽど残虐衝動を抑えることのできる世代とも言えますよ。原因はふんだんにあるのに、事件は減っているわけだからさ。こういうコンテンツが事件を引き起こすのならね。
しかしゲームのない時代の方が殺人事件が多かったということは、この帰納的推論が間違っていたということなんですよ。ゲームは関係ない。ゲームが事件を引き起こすという論理は崩壊しとるわけです。統計によって反証された。である以上は、ゲームからこの事件を探ってもまったく無意味なんです。「ただ、ゲーム好きだった」「ただ、ゲームを持っていた」というだけのこと。まったくの無謬。

  • 犯人の部屋からエロ本が見つかった
  • エロ本が犯罪の原因だ!

こんな話とレベル一緒。男なら1冊や2冊持っているでしょ。それを犯罪とを結び付けても仕方ないでしょ。24歳ならゲームやってるのが自然だからねえ。程度の問題はあっても、ゲーム機を持っていたり、ソフトを多数持っていても普通。これがやばかったら、電車内は殺人者だらけだわさ。PSPとかDSやっているヤツみんな殺人予備軍。……そんなわけないでしょ。
で、本当はこの程度の検証もなしに、事件と原因を結びつけて報道しちゃいかんのですよ。それこそ風評被害を招くわけで。世間をミスリードしちゃうわけで。それこそ「ゲームがあるから殺人事件は減った」ということすら言えますから。少なくても、統計結果から導き出されるのはこれなわけで。
それを検証もなく、都合よく関連付けて報道し、安易に結論付けるのはあまりにも非科学で、論理性がなさすぎる。より残虐な非ゲーム世代が温和なゲーム世代をクサしている。こういう構図と言えんことないですからね。ひとつの事件で社会全体を語るのは非常に乱暴なことですよ。
「木を見て森を見ず」のさらにダメなバージョンというかね。「木を見て森を知る気になる」。一部を知っても全部を知ったことにはならない。全部を知るには検証せよ。検証の後に帰納的推論の蓋然性を知れ。こう思うわけですよ。どのマスコミも短絡的な発想でステキだね。