(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

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松本人志考 不動だからこそ世に流される

これ見てオレも考えちゃいましたよ。松っちゃんのお笑い考。

オレは松っちゃんの笑いはぶれてないと思うな。昔も今も一緒。それは、松っちゃんは世の中がうける笑いをつくるタイプの芸人ではなくて、自分が面白いものを世に出そうとするタイプの芸人だから。

(5:32〜)
傲慢やと言われようが、オレがいいというもんがええ。
間違いない、オレに乗っといたら。

松本人志の放送室 第071回 03年02月06日 - ニコニコ動画

ここに集約されてる。自分が面白い。自分が基準。面白い自分が面白いと言うんだから、それもまた面白い。そういうシンプルな立場。なのでぶれない。一定。周りに合わせる必要がない。松っちゃんの笑いは、松っちゃんの中で完結している。世間での結果や評価は関係ない。自分の面白いが絶対。
なので、松っちゃんが面白いかどうかは、受け手によって左右される。松っちゃんから出てくる笑いは、常に同一の松っちゃんフィルターを通して出てくるのだから、品質は均一。レベルは同じ。ここはぶれない。ぶれるのは受け手だけ。受け手の笑いのセンスや面白いの基準の変化によって、松っちゃんが送り出す笑いへの評価が決まる。
つまり、松っちゃんに対して「つまらない」「終わった」「昔の方が良かった」と思うことは、実は松っちゃん本人がつまらなくなったわけでも、終わったわけでも、昔より劣っているわけでもない。「そういうように思うようになった」という自分の変化。松っちゃんという出し手の変化ではなくて、見ている自分という受け手の変化だと思うわけですな。
そういう意味で、実は「飽き」の感覚に近いのかなあと。同じ刺激を受け続けてきたことへの慣れでもあるし、感覚の鈍化。あまりに見すぎて、あまりに一般化しすぎた。世の中に溢れてしまった。そう思う人が増えてきた。だから「つまらない」という声が出てきた。「終わった」と言う人が出てきた。「昔の方が良かった」という意見を聞くようになった。でも松っちゃんは相変わらずテレビの前で笑っている。相変わらず自分が面白いことをやっているから、自分で笑える。逆に言うと自分で笑えることしかしてないわけだよね。昔も今も、そこはぶれてない。
松っちゃんの不幸は、あまりに「松本人志的なモノ」が増えてしまったことに尽きますな。松本人志DNA。マイノリティであったものがマジョリティになった。少数派が多数派になってしまった。ここに不幸の源がある。
というのも、元々、松っちゃんはアンチテーゼ的存在だった。「オレが一番おもろい」と公言する芸人は珍しかったし、「芸人はかっこいい」という価値観や、お笑いは文化であり芸術であると。そしてオレは天才であると。周りとオレは違うんだ。そういう強烈な自己主張をしていた。本も書いたし、色々な試みもした。当時それは珍しく、それだけに目立った。
でもこれって少数派だからなんですよね。そういうことをしている人が少ない。だから目立った。昔の芸人といえば「アホになる」であり、道化師だった。知性とは一本線引きをし、そこから意図的に離れ、アホを演じた。漫才の「ボケ・ツッコミ」の「ボケ」とは、まさにこのアホ役。アホな人を演じることで笑いを誘い、ネタにした。なのでプライベートでもそういうアホな人であったほうが都合が良かった。酒におぼれ、女におぼれ、遊びにおぼれる。リアルがアホであるから、芸事でのアホに磨きがかかるし、違和感なく客に見てもらえる。アホっぷりが演技なのか本当なのかわからない。そこに価値があった。
松っちゃんはそれを否定した。あれは意図的にやってるんだよと。計算だよと。オレ、頭いいんだよと。芸人ってアホじゃできんのよと。凄い仕事なんやでと、ネタバラシをした。アホ役のボケが、ボケを計算でやっていることをバラした。こういうものが新しかったし、少数派だったし、それまでになかった珍しい取り組みをした。だから面白かったし、みんなに受け入れられた。
ところが、それに影響を受けた人が芸人となり、テレビ関係者となって、松本人志DNAを持った人が増えていくと、それが全然面白くなくなってくる。過半数を超えた瞬間、それが多数派になる。常識になる。ところが常識になるとつまらない。珍しくもない、当たり前で普通の光景。しかしやっていることは同じ。松っちゃんは自分が面白いと思うことをやっている。でも、あまりに増えた松本人志DNAのせいで、相対的につまらなく見えてしまう。自分の遺伝子によって自分が損をする状態。現状はこういうところなんじゃないかなあ。
なわけで、今売れている人、あるいはこれから売れる人は、こういう松本人志DNAを持たない方が有利。少数派である方が強い。それは単純な話、目立つから。希少価値があるから。多数に埋もれないから。松っちゃんの影響を別にしても、そのときムーブメントになってないものに行った方が有利。流行を追うと遅れる。流行になるのを待った方が逆に早い。
ケンドーコバヤシは当分強いと思っているのはこういうところが理由だったりする。他の芸人に比べ、松本人志DNAが薄い。どっちかと言うと古い芸人価値観で生きている。なるべく自分をおとしめる。ハードルを下げる。バカを演じる。本当のことを言わない。ウソで塗り固める。リアルが全然出てこない。だから珍しい。価値がある。だから当分安泰。
逆に松本人志DNAを持つ人間には今後はキツイ。多分淘汰される。絞られる。「芸人はカッチョいい」という価値観はやがて古くなる。みんながみんなそう思っているのならば、なおさら陳腐化するスピードは早い。となると一気に飽きられ、「芸人はカッチョ悪い」が尊ばれる時期が来る。「松本人志冬の時代」が来て、「松本人志的なモノ」が淘汰される。ある芸人はスタイルを変え、その時代に合ったものにする。あるいは芸人自体が入れ替わる。松本人志DNAが減っていく。
けれども、多分、松っちゃん本人はそれを生き残る。問題なく生き残る。何故なら、松っちゃんはそのスタイルを変えない以上、多数派から少数派に転げ落ちた瞬間、また面白くなっていくだろうから。少数派になっていく過程でまた希少性を取り戻し、それが面白さになって笑いとなっていく。沈んでも浮かび上がるはず。
松っちゃんが復活したわけでも、急にまた面白くなったわけでもない。松っちゃんは自分が面白いと思うことを発信し続けるだけ。変わっているのは受け手のみ。世の中の構造や、お笑い界の状況の変化によって左右される。
「なんも変わってへんやん」
多分、松っちゃんは自分のことをこう思ってるんじゃないかなあ。
「変わってんのは、お前らやん」
とも。
果たしてここまでの軸を、松本人志フォロワー芸人が持っているか。ない人は淘汰対象になる可能性あり。そして、今、松本人志を目指す人には、こう聞きたい。

「柳の下にドジョウは3匹しかいないのに、その3匹に自分が入れると思う?」

これに「Yes」と即答できるのが松本人志

傲慢やと言われようが、オレがいいというもんがええ。
間違いない、オレに乗っといたら。

この異常な自信と強さ。何があっても生き抜くし、生き残るような気がしますよ。周りの評価はその時々によって変わるでしょうけどね。あまりに強く、あまりに軸があり、あまりにぶれないあまり、評価が周りの環境に左右されるというのは皮肉なことだなあ。不動だからこそ、世に流されるという。
以上、タケルンバの松っちゃん考でした。