(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

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お笑いブームの潮目

何事にも潮目というのがあり、またちょっとした出来事がきっかけで流れが変わったりするもの。振り返ってみると「ああ、あれが転換点だったのか」ということも少なくない。
で、最近思ったのは、バブルとも言うべきお笑いブームの終焉が近いんじゃねえかと。インパルス堤下と土岐田麗子破局話を聞いて直感したんですよ。
その理由。それはお笑いの反比例性。本来お笑いってマイナーなもんですよ。メジャーじゃない。誰もやらないことであったり、できないことであったり、気付かないことであるから面白い。予想を裏切ってこそって部分もある。一般的じゃなければないほど笑える側面があり、そういう意味で反比例性があるジャンルだと思うわけです。
その好例がいわゆる「ハードルを上げる(下げる)」という話。「こいつ面白いんだよ」って紹介すると、どんなに面白いヤツでも、面白みが半減するのですよ。面白いという前提で見るので、その期待をいい意味で裏切るのは難しくなるから。そういう紹介をされて表に出て行くキツさ。「何か面白いことやって」という要求の非道さは、やられた人は理解できる話。ハードル上げんじゃねえよ!
逆に「こいつつまんねえんだよ」と言われると、変なところでじんわり笑えたりする。面白くないという前提の刷り込みがあるので、妙なところがストライクになることがある。これは「面白い話があるんだよ」でも一緒。そういう前提がある時点で面白くない。期待させない方が面白くなる。笑えない話の方が笑える。そういう非対称性というか、反比例性というのがお笑いの特徴。
である以上は、ここまでお笑いがメジャーになってしまうと、全般的にお笑いが面白くなくなってくる潮目がいつか来る。臨界点いうか、飽和点というか。その潮目がこの破局。女性の本能というか、男を見る目ってシビアだからねえ。「今、お笑いが来てる」ってことで飛びつくのも早いし、「お笑いオワタ」と逃げ出すのも早い。そういう象徴的な出来事のような。そんな受け止め方をしてしまったのですよ。
エンタの神様」が微妙になっているのもそういうことだろうしね。似たような芸人ばかり。「あるあるネタ」を音楽でのせるか、リズムでのせるかの違い。で、こうした芸人が少数派のうちはいいんだけど、多数派になってしまうとつまらない。「レッドカーペット」が来たのもそういう理由。エンタと機軸が違うから。でもやがては飽きられる。続けばそれが普通になる。普通のものは笑えない。普通じゃないから笑えるわけで。そういう時間の問題になるつつある。
ましてお笑いがメジャーになると、元々メジャーである人がお笑いやればよくなる。マイナーな存在であった芸人にやらせる必要がない。その好例が関ジャニ∞。ビジュアルもいいアイドルにお笑いをやらせるのが一番手っ取り早い。同じような面白さであれば、見た目がいい方が有利。それだけの単純な原理。お笑いがメジャーになればなるほど。またメジャーになろうとすればするほど、お笑いの人間は必要なくなるんだよね。元々メジャーである人たちに吸収されるだけ。
そういう流れを考えると、一時的に「お笑いリセッション」が起こる気がしております。お笑い不況。普通のお笑いが一掃される試練のときというか。で、それを耐え抜いた人だけが次の笑いの流れに乗れる。技術が凄いとか、センスが凄いとか、顔が凄いとか、ネタが凄いとかのマイノリティな個性を持つ普通じゃないお笑いだけが生き残る。同時にそうした新人が出てくる。そういう予感。「M−1」だって今後も面白いかどうかわからんし、続くかどうかもわからない。ジャンルとして隆盛を極めた瞬間から、そのジャンルは面白くなくなる。ブームってそういうもんだしね。あるとき、突然ヤツは現れ去っていく。お笑いの冬は近いような気がしてなりません。杞憂に終わればいいが。