(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

珍しく語ってみるよ

正直言って、ワタクシはこの手の問題がよくわからない。

個別の問題に関しては答えが出せるのだけど、複合的な話がわからない。矛盾する答えしか出せない。
ひとりの女の子が自殺した。これは悲しい。メチャメチャ悲しい。非常に不幸であり、止めたいという気持ちはある。ただ、ムリに止めてどうするという気持ちもどこかにはある。「止めなければいけない」「止めるべきだ」という気持ちもあるのだが、どこかに「止められない」という気持ちもある。
また、ワタクシは自由主義者で、ベースには「自殺するのも自由」という信念があるにはあるが、その一方、それは一人前の人格を得た成年、大人の持つ権利であり自由だと思うので、未成年には成年まで生きる義務があると思っている。ガキは大人になるまではイヤイヤでも生きるべきだし、周りも強引にでも生きさせ、大人にならせるべきだ。大人になってあらゆる一人前の見識を得るまでは、死のうなんて十年早い。未熟な思考で生意気言ってるんじゃねえと思う。ガキには自殺する自由はない。
かと言って、じゃハタチになりました、自殺解禁ですねというと、もちろんそんな割りきりができるわけもない。いくら自由だって言っても、そこまでさばけてない。イヤだ。自殺現場が目の前だったら止める。意地でも止める。特に知り合いならどんな手を使っても止める。監禁してでも止める。それで自分が警察に捕まっても本望だ。知り合いという絆ってのはそういうもんだと思う。相手の自由を侵害してでも止める関係が絆じゃなかろうか。それが友だちであれ、同僚であれ、偶然の出会いであれ。
ただ「自殺した方が当人にとって幸せであった」という話には反論しようがない。事実、そうかもしれないからだ。どっちが幸せなのか、別人格の自分にはわかるべくもない。生きてた方がいいと自分では確信しているが、他の人にとってそうであるかどうかの確信まではない。で、まさにその判断こそが自由であるので、その結果、自殺を選ぶ気持ちもわからんわけではない。自分が生きることを選んだのと同じく、死ぬことを選んだのだろう。ワタクシはこの思考は否定できない。これは価値観の話だ。ワタクシの価値観が正しいのであれば、他の人の価値観も正しい。自分にとっては受け入れがたい価値観ではあるが、そういう価値観があることは認めなくてはならない。
そんなわけで、自由主義というひとつの信念はありながら、個別のことには答えが出せても、要因がいくつか重なってくると矛盾した答えしか出せないわけだ。ワタクシにはわからない。答えが出せない。頭の中で考えてすら混乱するわけだから、直面したらますます混乱するだろう。そして恐ろしいほどに非論理的な答えを出すだろうけど。
ブログについても同様。正直、どういうやり方がいいのかはわからない。今回、finalvent氏はひとつの結論を出したわけだけど、それが正しいのかどうかはわからない。せいぜいわかるのは「ワタクシとfinalvent氏は違う」というだけ。ワタクシにはワタクシのやり方があり、finalvent氏にはfinalvent氏のやり方がある。それ以上でも以下でもない。
ついでに言えば、finalvent氏のやり方が、他の人にとっていいやり方なのかもわからない。他の人との関係であれば「他にも方法がある」としか言えない。方法はいろいろある。いくらでもある。その中でベストの方法かと聞かれたら……やっぱりわからない。ベストの人もいるだろう。でも、ワーストの人もいるかもしれない。人それぞれとしか言えない。
基本的には目的と手段の関係性なのだと思う。費用対効果の問題であるのだと思う。finalvent氏における目的上、コメントやトラックバックを際限なく受け付けることは、もはや障害にしかならなくなったのだろう。そして効果に見合わない費用だったのだろう。ただ、目的が変われば手段も変わる。効果が変われば費用も変わる。目的に応じてより良い手段は変わるわけで、finalvent氏の考えが汎用性があるものだとはまったく思わない。
実際、ワタクシのブログではコメント欄を設けていない。コメントを一切受け付けていないわけだが、コメントに問題があると考えれば、この対処でもいいわけだ。最初から受け付けなければ、コメントに関する費用は発生しない。読む時間もかからないし、不愉快な表現を目にするリスクもゼロだ。
しかしそこまでfinalvent氏がしないということは、コメントに一定の意義があると感じているからなのだろう。それはそれ。ひとつの考えだ。承認制にして選別するというコストを払ってでも、コメント欄にはメリットがあるとお考えなのでしょう。
逆に言うと、ワタクシにとっては逸失利益が発生している可能性がある。コメントというブログの機能を使わないわけだから、そこから受けるメリットを受け取れないわけだ。メリット発生のチャンスを手放している可能性がある。デメリットと引き換えに、メリットを手放しているわけだ。
費用対効果ってのはそういうもの。各々短所・長所、メリット・デメリットを天秤にかけて考え、判断するもの。その上での考えであれば、それはそれでひとつの考え。ひとつの結論。自分には自分の考えが正しく、人には人の正しい考えがある。それぞれ自分の正しいと思うやり方で臨むほかない。finalvent氏のやり方が絶対ではないし、ワタクシのやり方も絶対ではない。手段の正しさは目的との整合性によって語られるべきだ。
なんだからしくもない長ったらしいクソマジメな記事を書いてしまったが、正直、ワタクシにはこういう問題がわからない。それぞれがそれぞれに幸せにやってくれとしか言えない。あらゆる道具は暮らしを便利に豊かにするためにつくられたものだ。パソコンやインターネットも同様の目的でつくられてものだと信じている。であれば、そうした目的にかなうように使っていただきたいし、そういう世の中であって欲しい。
人は幸せになるために生きるのであり、幸せになるためにあらゆる道具があるのであり、人はそれを駆使することができる。そしてさらに幸せになることができるものと信じている。人に悪意があることは否定できないし、性悪説を否定するほど楽観主義ではないけども、性善説でいないとやってられないことも事実。人の善意を信じられなくなったら、この世の何もかも信じられない。
逆に言えば、ワタクシ自身もなるべくはそういう善意を発信していきたい。ネガティブではなくポジティブなブログでありたい。できることならば、プラスの影響を与える存在でありたい。たとえそれは小さく、限定的なものであっても。わずかであり、ほんの少しであっても、効果があるのなら意義があることではないかと思う。ちょっとでもプラスならば良し。
少なくても自分にとっては、このブログはそういう効果がある。自分自身を前向きにする効果がある。ただ、他の人にとってそうであるかはわからない。逆に有害になっているケースすらあるかもしれない。その効果はわからない。今後も多分わかることはない。
ただ、ワタクシはプラスの効果があると信じて、今後もこのブログをやって行きます。自分にはプラスだ。ということは周りにもプラスだという強引な自分中心理論で行きます。ワタクシにはせいぜいワタクシの心しかわからない。であるならば、ワタクシの心を信じるまでです。
そしてもうひとつわかっていること。ありがたいことに善意の読者の方にワタクシは恵まれているということです。アクセス、ありがとう。RSS登録、ありがとう。ブックマーク、ありがとう。トラックバック、ありがとう。はてなスター、ありがとう。皆さんの善意は届いてます。皆さんのおかげでワタクシはますます幸せです。ブログで幸せになるとは必ずしも言えない。少なくても悲しい出来事があったわけで、不幸になることがあるということは証明されてしまった。でも、同時に幸せになることができるのは、ワタクシと皆さんが証明しているのだと思います。
感情が高ぶり、妙な記事を書いてしまいました。ま、珍しいこともあるもんだということで、なにとぞご容赦を。