(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

気付けるうちは大丈夫

接客業をしていたので、ついつい人の接客が気になって見てしまうのだけれど、たまに物凄く惜しい人がいる。ちょっと変えるだけで印象が良くなるのになあ。もったいないなあ。かえってイメージ悪くなってるよなあ、みたいな。頑張ろうという気持ちが空回りして、逆に悪い印象を与えているケースが多い。
特に慣れてない人はこういうことをする。

ひとつの作業が終わりきらないうちに次の作業に移ろうとする

「ご注文お待たせしました!」みたいな感じで料理を持ってくる。ピークタイムで忙しい。そういうとき、料理を置くか置かないかのタイミングで、体が次の動きをしているときがある。体と腕はお客様に正対してるのに、顔だけ横を向いている。あるいはその逆で、顔だけ正対しているが、体とか足は次の作業へと移るため、既に半身になっている。
こういうのってもったいない。実に惜しい。だって、次の仕事、次の仕事と急ぐあまり、目の前の仕事を疎かにしている。体も顔も正対して、きちんと料理を置き終えてから体の向きを変えても、実はそんなに時間のロスはない。なのに気が急いでついつい先の動きをしてしまう。「ありがとうございました」も言い切らないうちに次の作業を始めたり。
そういうのってみんな見てる。実は見てる。良く見てる。口には出さないが、「失礼なヤツだ」「無礼だ」「口だけか」と思っている。それってもったいない。ほんのちょっとのことで評価を下げるなんてもったいない。

きちんと終えてから次にうつる

当たり前のようなことだけど、こういう基本ができていると気分がいい。ひとつの作業をキッチリ終わらせる。終わらせてから次へ移る。基本的なようで難しい。忙しいときほど難しい、忙しさにかまけて、作業を流れでこなしてしまう。
けれども、本当はその作業ひとつひとつに相手がある。どれもおろそかにできない作業。ある作業を終わらせないまま、次の作業をすることは、終わらせてない作業の相手に対して失礼な行為。特に繰り返しの作業の場合に注意したい。自分は繰り返し。しかし相手にとっては貴重な1回。
ひたすら生ビールをつぐ。ひたすら野菜を切る。魚を焼く。肉を煮る。料理を出す。食器を下げる。食器を洗う。外食で言えばこんな作業が繰り返し行われるけど、作業する側にとっては何度も繰り返す中での1回。しかし相手にとっては物凄く意味がある1回かも知れない。仕事終わりの貴重な一杯。記念日の食事。プロポーズのシチュエーション。

聖なる一回性

繰り返しに見えるその1回1回は、すべて新しく、そのとき限りのもの。繰り返しに見えて特別。その1回こっきりのシチュエーション。聖なる一回性であることを意識して動くようにするだけで、繰り返しの作業ひとつひとつに心が入る。人の心のこもってない動きを見るたびに気になる。自分はどうか。繰り返しが本当に繰り返すだけになってはいないだろうか。自分を戒める。
気付くうちは大丈夫。自分を戒められるうちも大丈夫。問題は気付かなくなるとき、戒めようと思わなくなるとき。繰り返しの不感症だけにはならないよう気をつけたい。連続性によって聖なる一回性を忘れないようにしたい。接客業をやってたからこそ、こういう気付きを他山の石としたい。