(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

ライターは何をするための道具なの?

国にやってくれとお願いするのって、どうかしていると思うよ。

特にマスコミがさあ。
ライターとかの火遊びによる火災が起きた。しかも被害者がいる。それ自体は不幸な出来事で、悲しいことなんだが、だからといって国のお出ましをお願いする姿勢はどうなのかねと。特に「第四の権力」とかって言われ、国家権力を監視する立場のマスコミが、いとも簡単に要請するのってどうなのかね。国の権力を抑制させる立場なんじゃねえかな、本来は。

こうした悲惨な事故を防げない最大の問題は、使い捨てライターなどに安全規制がなく、幼児でも簡単に着火できることだ。

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20100410-OYT1T00975.htm

違うよ。「幼児でも簡単に着火できること」が問題じゃないよ。「幼児でも簡単に着火できる場所に置いてあったこと」が問題なのよ。手に届く場所にあったことが悪い。
結局さ、赤ちゃんとか幼児って大人になりかけというか、ある意味で「人間になりかけ」な状態なわけで、判断能力がない。しかし好奇心はある。手を伸ばし、食べられそうなら口に入れてみるし、触って反応があるならいじってみる。それは誰しもがそういう段階を通っているわけで、大人となる、人間となる一種の通過点。ライターがあれば触ってみるし、火をつけてみる。子どもってそういうもんでしょ。刃物でケガをしましたとか、誤飲してえらいことになりましたとか、古今東西いくらでもある話でしょうに。
でだ。そこを安全に通過させるかどうかは、本人の問題というより、周りの問題だわさ。それが「保護者」だわさ。親の役割でしょうよ。子どもなら誰しも類似の「ヒヤリ・ハット」がある。それを如何に未然に防ぐか。そういう先回りの愛情があってしかるべきだし、こういう悲しい事故があった場合には、「他山の石」にするのが本来の姿じゃないかな。危なそうなものを置かない、買わない。そしてより安全なものを手に入れる。世間一般の親はそうして過ごしているんじゃないの?
それをだ、「国が悪い」「国が対策せよ」じゃ効果が低いと思うわけね。それだと「対岸の火事」になりゃしませんかね。事故があったときに自分が悪いんじゃなくて、他者が悪いとするというのは、精神衛生上はよろしいのかもしれないけど、安全対策上はほとんど意味がない。ライター規制は進んでも、他のもので結局事故が起きる。直接の原因が変わるだけで、そんなもの本質に変化はありませんよ。「ライターが悪い」じゃなくて、「火の気のあるものを子どもの手に届くところに置くのが悪い」に意識を変換しないと。
こういう話って、蒟蒻ゼリーのときもそうだったけど、特定の商品の悪者になりがち。そうじゃないよな。そういうもんじゃないよな。
また何故か国のお出ましを願う展開になる。これも違う。国があれこれする前に、親が、家庭が、近所がやることがあるでしょうよ。国は最終手段でしょうよ。個人レベル、民間レベルではできることに限界があっての国でしょうよ。何でもかんでもお上に頼る意識って不健全じゃないかね。
それにさあ、そもそもですよ。ライターって火をつける道具だよね。火をつけるための道具なのに、火がつきにくくなるように規制をかけるってところに矛盾を感じやしませんかねえ。蒟蒻ゼリーもそうなんだよな。あの蒟蒻特有のプリプリ感がいいのに、それを小型化して歯ごたえを弱めるとか。わけわからん。そういうものとして出来ているものでしょうよ。商品としての機能は十分に発揮しているわけで、不幸にして起きた事故は、その商品としての機能が発揮されたがためのものでしょうよ。
だとしたら、それは商品の問題じゃなく、使われ方の問題だべなあ。包丁で指を切った事故が多発した場合に、「包丁を規制しましょう」みたいな話になるってこと? 包丁だって「ものを切るもの」だから、大根だろうが指だろうが、何だって切れるよね。で、指を切った場合、悪いのは、基本的には包丁を使った人の問題だと思うのですがね。どうなんでしょうね。
こういう特定の商品叩きをはじめると、生活の利便性のためにつくられたものが、どんどん効果を封じられるということにならないかと心配でなりません。ライターは手軽に火がつくから便利なんよ。その利便性を手放してどうする。まして、それだけのことに国を担ぎ出してどうする。ましてや、それをマスコミが求めてどうするよ。何もかもおかしいと思わざるを得ませんね。
人が亡くなったという事実は悲しい。しかしそれはそれ。これはこれ。不幸と事故の本質をごっちゃにしてはかないませんや。