(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

不便さは便利さが創造する

海外に行って面食らうことのひとつに、トイレの表示があるんだよね。日本だと、男は青で、女は赤というルールが定着しているので、色で男女を判断できるのだけども、海外ではあまり色の男女分けをしてない。

試しに「toilet」「sign」で検索をかけてもこんな感じ。最近は男女の色分けをするケースも増えてきたようではあるけど、基本は男女同色で、形によって区別している。

こんな感じで青で統一されているのもあれば、

赤で統一されているのもある。

こんなのもあったり。色分けはせず、形で男女の違いを表示するってのが一般的。
でだ。日本の「青は男。だからとりあえず青い方へ」に慣れていると、面食らうのだ。両方とも青だったり、男女の色の差がない場合に。「えーと青い方青い方…えっ……うっ…あ…男はこっちか……」と一瞬考えることになる。「ここは日本じゃねえよな」となる。海外に行くとき、向こうの空港に着いて、いきなりくらうカルチャーショックみたいなものよね。
冷静に考えれば男女の表示の形は明確に違うわけで、色の差はなくても、どっちが男で、どっちが女かはひとめでわかる。だけど、日本では形認識ではなく、色認識。色で判断しているので、その色がなくなった場合に判断が遅れてしまうのよね。「色で分かる」という先入観があるから、色で分からない場合に混乱が起きる。
ある意味、この先入観によってラクができてるってことではあるんだけどね。形判断より色判断の方がラクだってことなんだろうと思う。「青は男」っていうのがわかっているから、表示の形をよく見ない。表示の形について判断する時間や労力をカットできる。先入観によって本当は必要な思考をせずにすむ。この「しなくてすむ」という時間と労力の分が便利さの利益ということなんだろう。わかりやすい表示の利益って、考えなくて済むってことだろうし、それまでに考えていた分の時間や労力を浮かせるってことなんだと。
しかしこの先入観とか前提の共有がされてない場所では、この便利さの利益がなくなる。色で男女を表示するところから、色で男女を表示しない地域に行った場合に、色判断に頼っている人は色の便利さを失う。色判断で思考をショートカットできてたのに、それができなくなり、いちいち考えなくてはならなくなる。少なくても形判断に慣れるまでは。
そのショートカットができない分、それを「不便」と感じるケースもあるだろうなあ。今まで色で単純に判断できたのに、それができない。不便。こういう流れ。しかし元はと言えば、本当は形で判断できるような表示があるだけでも十分便利で、日本ではそこにプラスアルファとして色の区別があるってだけのこと。形だけの一階建てか、形と色の二階建てかの違いで、本来は両方とも便利なことには違いがない。「男」「女」と書かれているよりは、よっぽどわかりやすい。
しかし、あまりにも色が便利なため、いちいちどっちが男でどっちが女か考えずにすむ利益が発生しているので、この利益を失う不利益が大きいのだなあ。形で判断できるというのも十分な利益なのに、色で判断できないことでそれが不利益となる。色判断ができないことで、余計に能力を使う分、その時間や労力が手間となり不満となる。場合によってはストレスになるだろうし、疲労の原因にもなってしまう。
現代社会のストレスってこういうところなんだろうなあ。不便さを生むのは不便であるという現実ではなくて、より便利なものが生まれることによって、より不便なものが発生する。不便さを創造するのは便利さ。ある分野が発展すると、未発展分野との差が広がり、その差が不満となりストレスとなる。そもそも便利になっていなければ問題にならないようなことでも、ひとたびその便利さが定着してしまうと、それがない社会とのギャップが広がり問題化してしまう。
高度に記号化された社会によるデメリットなんだろうなあ。妙な話であるけれど。