(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

必要なのは赤ちゃんに自分自身を重ね合わせる想像力

さかもと未明周辺が盛り上がっておりますな。

こういう話に関しては、いろいろな観点や論点、あるいは些細な事象、瑣末な重箱の隅ツッコミなどいろいろできるわけですが、俺の基本姿勢としてはこの一点。

赤ちゃんのとき、泣かなかった者だけが石を投げなさい

こういうのはマナーとかいう話じゃないと思うんだ。赤ちゃんが泣いている。それは自分自身が通った道ではないのかい? というだけのこと。我慢する・しないとか、親がなんとかする・しないとか、そういう二者択一になっていく話ではなく、赤ちゃんに自分自身を投影できるかどうか。そしてそういう想像力を持てるかどうかだと思うんだ。
なわけで「親の立場として」という視点もちょっと違う。違和感がある。それは投影力とか想像力を持つためのきっかけのひとつではあるけれど、「自分が親だったら」という限定されたケースに話が小さくなってしまう。「子どもがいない親なので批判セーフ」という言い訳が生まれてしまうし。
本件は「自分が泣いている赤ちゃんの親だったら」という仮定が重要なのではなくて、「自分も昔、その泣いている赤ちゃんだった」という認識が大事なんじゃないかな。そしてそれによって「しょうがないよ」という積極的な寛容さを持ったり、「仕方ねえな」という消極的な諦めに至ったりするものじゃないかねえ。
で、最近の様々な出来事を顧みるに、こういう「自分自身がそうであった」もしくは「自分自身がそうなる」って感覚が年々弱まっているような気がするのです。例えば緊急車両に道を譲らないとか。いつ自分が救急車で運ばれるかもしれない。そう思ったら、救急車には道を譲るものだと思うわけですよ。立ち往生している緊急車両。その車両を待つ人間が自分だったら。あるいは、その中に自分が乗っていたら。
生活保護に関する話なんかもそうですよ。今は働いている。でも、いつどこで働けない事態が起きるやもしれず。突然の病気や事故、会社の倒産。偶然が重なって今の状況をすべて失うかもしれない。いや、そういうことはほとんど起きないんですよ。起きない。でも起きることだってあるんです。で、起きた時の対象者が自分だったらどうします?
泣いている赤ちゃんに自分自身を重ね合わせることができるか。泣いている赤ちゃんの母親に自分の親を重ね合わせることができるか。泣いている赤ちゃんの周りの我慢している大人に今の自分を重ね合わせることができるか。
まあこういう投影力と想像力の話だと思うわけです。「情けは人のためならず」ってことでもあるけれど。