(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

イケなんとかさんに対する雑感

他者に影響を与えない言葉などないと思っている。
外に発せられたものは、その影響の範囲の大きさや、効果の強さ、あるいはその意図の有無の違いはあれど、何かしら影響を与える。影響を数値化すれば、ゼロ以外の何かだ。
で、イケなんとかさんの話。
個人的にはイケなんとかさんには興味がない。興味がないから、これまでこのブログでも取り上げたこともない(はず)。好き嫌いで言えば嫌いの部類に入る。
しかしわざわざそれをこれまで書かなかったのは、わざわざ「嫌い」ということを書く必要なかろうという思いがあってのこと。あんまりネガティブ感情を書きたくないし、それを人に読ませたくもない。書けば嫌でも目に入る。わずかばかりでもGoogleとかの検索で引っ掛かりやすくなるのも癪だ。
なので、彼の固有名詞を俺のブログに残したくない。うちのブログ経由で他の人に見てもらいたくもない。できる限り彼の考え方は、人に見られぬまま知られぬままであってくれたほうがいいと思っているので、わざわざこの記事でも「イケなんとかさん」と表記している。
俺は自分のブログに力があるとか思ってはいないし、そういうのは度を越せば思い上がりにつながるとさえ感じているわけなんだけども、その一方でまったくの無力だとも思っていないのは、ブログを書き連ねてきた日々の中で、かけがえのない出会いを経験しているから。
何せブログきっかけで結婚までしているわけで、文章の力だとかの影響力は絶対に否定できない。現在否定になってしまうもの。
プラスのものを出せばプラスの効果があり、マイナスのものを出せばマイナスの効果がある。
これはあらゆる表現に通じるもの。だから俺は少なくても自分のフィルタを通して外に出したくないものはこのブログに書かないし、残さない。

少なくてもこんな記事書いてるくらいなんで、マルチ礼賛するような記事を書く人間とか信用しませんよ。リンクもはりません。固有名詞も書いてやりません。「人は見かけによる」がポリシーです。「怪しいことを書く奴もまた怪しい」です。あ、これブーメランか。ごめんなさいごめんなさい。
でもね、一方で「影響力考えろ」と人に言うつもりもないんです。このあたりは少しばかりわがままなんですが、「影響力を考える」というのは自らに課すもので、人に要求するものではないと思っているんですよ。あれやこれや考えて、自主規制だらけになってはそれもまたつまらん。がんじがらめになるのも良くないと。
このあたりは美学なんです。あくまで自らのマナーなんです。やまもといちろう氏の言はよくわかる。でも、イケなんとかさんの話もわからんのではないのですよ。
ただね、「挨拶しなくてもいい」みたいな感じで、自分がしない・できないことを正当化しだすというのはどうなのかねえと。イケなんとかさんが自らの影響力を考えないのは勝手だし、挨拶しないのもご自由にすれば良いと思うのだけれど、それを公然と正当化するのはなんだかなあと。
端的に言えば、負の方面に言質を与える行為だと思うのね。「イケなんとかが言ってた」と。「だから、しなくていいんだ」と。そういう材料になる。
イケなんとかさんはそれに責任をとらないし、とれないし、知ったこっちゃねえよということを表明しているわけなんだけども、「自分はこうです」と「レッツ無責任!」は次元が違うと思うんだよね。ノマドの部分もそうだけど。「レッツノマド!」と呼びかけながら、「イエスノマド!」と応じてきても知らねえよというのは、あまりにファン泣かせのボーカルじゃないのかねえ。
とまあこんなことを思ったわけです。……なんかイライラする人が多いのわかるわー、めっちゃわかるわー。