(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

ノーテレビ環境が導く視聴スタイルの変化

我が家もノーテレビ。

きっかけは地上デジタル化。チューナーとかなんとかの工事やら設定やらが面倒くさい。なのでそのまま放置。
そのため、2011年7月24日のアナログ放送の停波をもって、我が家のテレビは見事な置物に。
で、その結果どうなったかというと、生活の質に変わりはない。別にテレビがあろうがなかろうが、生活自体は変わらない。ただ、テレビを見る時間は減る。そりゃそうだ。映る道具がない以上は、見る時間は減る。
とはいえ、テレビをまったく見ないかといえば、そういうわけでもない。携帯電話のワンセグ放送などで見る。画面は小さいが、一応見れるし、見ることがある。
実はここにテレビを巡る環境の大きな変化があるんじゃないか。

「とりあえず視聴」「ながら視聴」の消滅

テレビがないので、「とりあえず」とか「ながら」の視聴時間がなくなった。

  • とりあえずテレビの電源をつけておく
  • 他のことをしていてもテレビをつけておく

これがない。

理由がなければテレビを見ない

言い方を変えればこういうことだ。積極的な理由がなければ見ない。やりたいことの1位にならない限りはテレビをつけない。
もう少しひねった言い方をすると、今でも見たいものがあれば見る。今、その時、テレビでしか見れないもの。それがある限りはテレビを見る。テレビが唯一の選択肢である限りは見る。積極的な視聴理由があれば見る。
しかしながら消極的な視聴スタイルがなくなってしまったんだな。積極的な視聴スタイルしかなくなってしまったんだ。我が家ではもう見たいものがない限りはテレビを見ない。「面白いものを見るもの」ではあるけれど、「面白いものを探すもの」ではないんだ。

続編戦略の有効性

そういう俺の状況から考えるに、「続編とか二番煎じばかりで新しいコンテンツが生まれない」というのは実に正しい戦略性の賜物だと思う。俺みたいな人間は、面白いか面白くないかわからんものをわざわざ見ない。それよりは、以前面白いと思った続編のほうが興味を持つ可能性が高い。
ガリレオ」の高視聴率と、「テレビ離れ」の矛盾をどう考えるかという話の答えにもなると思うんだけども、最初の「ガリレオ」を面白いと思った人が、興味を持って続編を視聴し、それを「面白い」と感じて継続的に見ていることによる高視聴率と、テレビを見ている人間が減っているという現実は矛盾しない。「面白ければテレビを見る」という人が「面白くなければテレビは見ない」という考えであれば。なんでもかんでもは見ないから、総量としての視聴率が減少しているが、「面白いもの」は見るので、単独の番組単位の高視聴率はありうる。
また「好評が好評を呼ぶ」という面もあると思う。高視聴率という事実。それが人の興味を喚起させ、「わざわざ」見ようという積極的な理由となる。右肩上がりに視聴率が良くなる番組の場合、積極的な視聴理由をつくっていると考えられる。
逆に言うと大河ドラマの苦境もこのモデルで説明がつく。一度否定的な評判が根付くと、そこからは復活することはむずかしい。否定的な評判のものを、わざわざ視聴する人は少ないと予測されるからだ。既存の視聴者もいくらかは離れていくだろうし、新規の視聴者はさらに獲得しづらい。そうなると右肩下がりになる。尻すぼみになる。

  • 視聴者にとってテレビが消極的コンテンツから積極的なコンテンツに変化しているのではないか?
  • そしてそれが視聴行動の変化につながっているのではないか?
  • それが故に「高視聴率番組の存在」と「テレビ離れ」が両立しているのではないか?

これが我が家のノーテレビ環境から考えられる仮説。さて、実際はどうなんでしょうねえ。