(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

ネオ真空総理

散々安倍晋三をクサしてきたタケルンバだけども、実はクサせる分、安倍はまともだし、ありがたい存在ではあった。何でかと言うと、安倍は立場が明確だったし、やることやってたから、それに批判を加えることは簡単だったんですよ。具体的だったんでね。焦点が絞りやすい。主義主張は合わないし、辞め方に関してはあらゆる罵詈雑言で応えたい所存だけども、この点は評価せざるを得ません。反論されるリスクを承知で、自らの主張を明らかにしてきた点についてはね。
それに引き換え、福田はどうだ。内閣が発足してしばらく経ったけど、ついぞ具体的な方針はなし。相変わらず何をしたいのかがようわからん。「ゆっくり検討して」一本やり。どうしたいのかが未だに見えない。
ある意味、森喜朗を超える「真空総理」っぷりだよね。真ん中に何もねえ。森はまだ「サメの脳みそ」と言われていたように、結構「アレ」というのは認知されていたし、ポロポロとナイス発言する分、微妙な芯はあったんだけど、福田には本当に何もない。見事なまでの真空。森なんかより、よっぽど何もねえですよ。かつて竹下登が「言語明瞭、意味不明瞭」って言われたけど、それ以上。「空虚」の一語につきます。
で、この状況ってズルいんだよね。批判しようがないから。中身がないから批判しようがない。検証も成り立たないし、議論しようもない。
これってカール・ポパーの考えでいけば非科学。反証可能性がない状態。カール・ポパーって哲学者によると、科学と非科学を分かつものは、反証可能性であると。例えば「オレは長澤まさみが好きだ」ってのは非科学。オレの頭の中の話なので、誰もくつがえしようがない。検証不可。でも「長澤まさみは世界一美人だ」というのは科学的なわけです。「長澤まさみは美人じゃない」とか「長澤まさみより美人がいる」とかの反証でくつがえすことができるから。で、その方が意義深いことなんですよ。少なくても正しいか間違っているかの答えが出るんでね。
ところが福田には何もない。意義も内容も中身もゼロ。で、ここが重要なんだけども、間違っていることを知ることも、科学的には進歩なんですよ。正しいことを見つけるだけが進歩じゃない。地動説から天動説に切り替わったのは、地動説が間違っていると気付いたからなんですよ。そういう意味で、具体的な行動を起こすことは、実は一定の意義はある。福田がここまで何もねえというのは非科学の極みであり、時間の無駄。安倍より遥かに残念。
今の福田の様子を見るに、五丈原でひたすら守りを固める司馬懿ですな。とにかく何もするなと。諸葛亮と戦うべからず。ひたすら待てと。で、これは強者の選択としては正しい。戦わなければ負けない。負けないためには戦わない。で、実際に三国志の世界では諸葛亮が死んで、魏の危機は去った。恐らく福田も何もせずにじっと耐えれば何とかなるだろうと。何もしなきゃ批判される事態は起きないだろうし、そうなりゃ選挙で大敗して下野することもない。過半数守ればそれで良し。そんな感じなんだろうけど、ここまで何もねえとなあ。真空っぷりにムカツク次第。
安倍にも散々イライラさせられましたが、福田はそれ以上だね。「老獪」という名の「空虚」。これこそ「戦後レジーム」のような気がしますがね。そこんとこどうよ、安倍ちゃん。