(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

プロレスラーの生きる道

彰俊、それは違うぞ。

人としてはもの凄く正しい振る舞いだし、最後となった技をかけた責任感もあるだろうから、人情としては正しい。詫びても詫びきれないだろうし、涙が止まらないだろうし、悔いて悔いて仕方ない。そりゃそうだ。そうだろう。そうしたい気持ちはわかるよ。そうしたくなるだろうよ。ごくごく自然なことだよ。人としては合ってる。
でもだ。プロレス的にはダメ。人としては正しいけど、プロレスラーとしては正しくない。人として正しい振る舞いと、プロレスラー的に正しい振る舞いは違う。プロレスラーの価値観は、社会規範とか社会常識と違う。ある意味、常識をぶっ潰してこそプロレスという面があるくらい。

三沢さん最後の試合で対戦相手の一人だった斎藤彰俊選手(43)はこの日の試合後、リングサイドに飾られた遺影に向かって土下座。「(三沢)社長はまだまだやりたいことがあったのに。おれがあんなことをしちゃって。どんな重い十字架でも背負う」と涙ながらに話した。

http://sankei.jp.msn.com/sports/martialarts/090614/mrt0906141939004-n1.htm

できればこうして欲しかった。

この日の試合後、リングサイドに飾られた遺影を投げたあと、激しく踏みつけ、マイクアピール。「三沢を殺したのは俺だ! 俺のバックドロップを食らうとこうなるんだ! ワッハッハッハ!」と高笑いし、観客の大ブーイングを背に退場していった。

このくらいやると良かった。人として最低の振る舞いをして欲しかった。前日に痛ましい事故があったわけで、選手に、まして当事者のひとりにこういうパフォーマンスを求めるのは酷だし、非現実的だし、こういうことを要求する俺こそ人としてアレだ。けれども、そうしなければならなかった。

プロレスなんだぜ!?

これはプロレスなんだぜ、彰俊。普通の行為、予想の範囲内の行為は一切記憶に残らないものなんだぜ。異常な行為、予想以上の行為だけが人々の記憶に残るジャンルなんだぜ。予想を越えるから、見る人の心を動かし、目を集めるんだ。だからプロレスなんだよ。格闘技じゃないんだよ。プロレスはプロレスで、他のジャンルと違うんだよ。人の感情をわしづかみにするから、プロレスは熱狂的な人気をかつて得たわけだし、俺も、そして他のプロレスファンもプロレスを好きになったはずなんだな。
この世の中で起きたすべての出来事を含んだものがプロレスなんですよ。プロレス成分なんですよ。レス分なんですよ。土下座はあまりにもプロレスではない。当たり前の行為だし、普通。だからこそレス分が足りない。プロレス的に最悪。プロレスをしてない。
三沢光晴は死んだ。これは動かしようがない事実。しかし「プロレスラー三沢光晴」を生かすか殺すかは、これからの展開次第なんですよ。土下座してごめんなさいで、関係者がわんわん泣いては、三沢が「事故で死んだかわいそうな人」になっちゃうんだよ。

違う!

「事故で死んだ」にしちゃいけない。それでは話がプロレスにならない。プロレスという連続ドラマのいちシーンにならない。連続ドラマのいちシーンにならないということは、いずれは忘れ去られてしまう。プロレスというドラマとは違う、別世界の話になってしまう。それではプロレスラーとして死んでしまう。三沢のいない物語が続くだけ。そのうち回想もされなくなる。そういう存在になってしまう。
プロレスラーとして生きてもらうには、三沢という存在を誰かが背負わなければいけない。それは「死んだ」という業を背負うこと。「殺した」という極端な表現で背負うこと。ヒール(悪役)を演じきること。プロレス的にはそれが正しい方法。ヒールが悪く、憎まれるほどに、ベビーフェイス(善玉)が生きる。彰俊が三沢を殺したという悪役を演じれば演じるほど、三沢はヒーローとして昇華していく。悪役が光れば、善玉も光るものなんだ。彰俊が長く光れば光るほど、三沢も長く光り続けるんだ。
それにだ、このままでは彼がもたない。

「(中略)どんな重い十字架でも背負う」と涙ながらに話した。

どっちみち、彼は重い十字架を背負ってしまったのだ。この十字架を振り払うことはできない。それこそ職業関係なく背負う十字架だろう。人として。忘れることはない出来事として。
今後バックドロップは出しづらくなる。心理的に使いづらい。三沢の影がどうしてもちらつく。そりゃそうだ。三沢にかけてしまった最後の技がバックドロップだから。彼にとってバックドロップは呪われた技となる。いや、バックドロップだけじゃない。他の技だってかけづらくなる。心理的なためらいの原因になる。これまでのような試合ができにくくなる。
しかし、それでは三沢だけではなく、斎藤彰俊もプロレスラーとして死んでしまうのだ。ひとりの死によって、ふたりのレスラーがプロレス的に死んでしまう。それはノアというプロレス団体の社長だった三沢が望む展開ではないし、プロレス界としても損失。

人の死すら利用しろ!

極端に言えばこういうことなんだ。人の道には反するが、プロレス的にはこれが正しいんだ。彰俊は三沢を冒涜すればいい。悪しざまに罵り、嘲り、笑い捨てればいい。心の中で「ごめん」と拝み、その反対の行動を徹底すればいい。それが自分が生きる道だし、三沢を生かす道。三沢を生かすには、自分が生きるしかない。人間的に最も間違った行為が、プロレス的に正しいことがあるんだ。そして故人を敬う行為になることがあるんだ。
世間の憎しみを集めればいい。社会を敵にまわすといい。日本中に非難されればいい。その過程で「悪役斎藤彰俊」は認知されるだろうし、斎藤彰俊が認知されればされるほど、三沢光晴も認知されていく。斎藤彰俊が有名になれば、斎藤彰俊を有名にしたエピソードは語り継がれていく。つまりプロレスラー三沢光晴も語り継がれるということなんだよ。世間を敵にまわせばまわすほど、世間にとってのヒーローに三沢は昇華していくんだよ。プロレス的にはそれでいいんだよ。それがプロレスなんだよ。
あるプロレスラーのWikipediaへのリンクを貼っておく。

キラー・オックス・ベイカー。彼はふたりの試合相手をリング禍によって死亡させている。それにより「キラー」つまり「人殺し」という愛称が定着し、悪役のイメージを定着させ、死亡原因となった心臓部へのパンチ攻撃を「ハート・パンチ」という必殺技にし、悪役レスラーとして大成した。
プロレスラーとしてこういう生き方もあるのだ。重い十字架を背負いつつ、それを逆に売りにする生き方が。とてもとても一般的な価値観では受け入れられる話ではないし、非常識だし、人の道に外れる話ではあるけども、そういう世界なのだ。そういう世界に彼らは生きているのだ。
今はただ、三沢光晴というレスラーを安らかな眠りを祈るのみ。そして残された者、特に斎藤彰俊の活躍を祈るだけ。事故の幻影を振り払い、これからもバックドロップを使うことを願う。それがプロレスラーの生きる道。平凡なことをするな。異常なことをしてくれ。彼には語り継がれるレスラーになって欲しい。それが三沢をプロレスラーとして最も輝かせる道なのだから。