感情的になると論理的なものが捨て置かれる傾向があるわけですが、しかしそれにしてもいいリトマス試験紙だな。
ビデオを公開したことがグッジョブだったかどうかはさておき、法律違反は法律違反で処分する。それが法治国家というものだと思うのだけども。ある犯罪があったときに、「誰が」とか「どういうタイミングで」とか、意図とか、世論とか、誰かの意思とか。そういうので判断せずに、「法律違反の有無」で判断するというのが「法治」だわねえ。争点は「違法性」とか「犯罪要件成立の有無」だろ。
そうでなけばそれは「人治」。法ではなくて、人の判断に委ねるわけだ。「かわいそうだから」とか、「いいことしたから」とか。その「かわいそう」とか「いいこと」の基準は感情であり、個人の主観。
同じく「国のためになる」とか「国益にかなう」とかもアウト。「何をもって国のためになるのか」とか、「国益とはなんぞや」という話の前提が人それぞれだから。
確かにビデオを流出させることは国益にかなうのかもしれない。国民にとって利益のある行為なのかもしれない。「だからこそ流出させた」という正義感はあってもいい。そういう正義感は認める。正義感ってのは個人の感情だから。
しかしながら、そういう正義感と法治は別次元の話。正義感は正義感として尊重はするが、法律違反は法律違反で処分されなくてはならない。それはそれ、これはこれ。「いいことしたんだから許せ」「法を曲げろ」では、別の正義が歪んでしまう。
政府が国益を損う判断をしたときに、職を賭し、人生を賭して、情報を公にした内部告発者は立派だからである。
勝谷誠彦吠えた!「ボクはテッテー的に守りますよ」尖閣ビデオ公開者 : J-CASTテレビウォッチ
立派なことをしたかどうかと、違法な行為をしたかどうかは別次元の話。この話を混同してしまうと法治国家ではなくなる。「立派だと思う」という感情で法を曲げてしまっては、法治国家ではなく、「人治国家」になってしまう。