(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

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「やっちゃいけない」からおもしろい

こういうのは「やっちゃいけない」って常識があるからおもしろいんだけどね。

世間一般では「やっちゃいけない」ことになっている。非常識。普通はやらない。やるもんじゃない。不快。不愉快。
だが、それがいい
お笑いってそういうもんでしょ。だからおもしろいんでしょ。常識的なことをしておもしろい? 非常識だからおもしろいんですよ。だから、こういうリアクションはお笑いの意図としては至って正常ではある。

「お笑い」って非対称性があるのですよ。誰もがやることって面白くなくなる。誰もがやらないことが面白い。「笑う」という感情は意外性の裏返しで起きるもんなんで、「やらない」という常識を裏切ることで「笑い」が生まれる。「叩くことは良くない」という共通認識があるから、ツッコミは面白いわけだよね。しちゃいけないことをしてる。それが面白いと。

お笑いの非対称性 - (旧姓)タケルンバ卿日記

このツッコミの件と話は一緒で、やらないのが常識なのですよ。しちゃいけない。実行する人が異常。けれども、異常だからおもしろい。誰もがやることなんて、珍しくもない。そんなものに価値はまるでないんですよ。想定できるものに大きな価値はつかない。誰しもが思いつかないことに希少性が生まれ、価値がつく。世間では非常識ということになってるから、おもしろくなるんだよな。
ただ、最近はこういう非常識に対する異議申し立ての声が大きすぎる気はする。いや、本当はこういう意義があった方がいいんですよ。ある方が正常。世間が怒るってことは、それだけ世間の裏に行っているということだから、お笑いとしては正しい。人の感情の起伏を刺激してナンボ。感情を刺激しないものはお笑いとして無価値。笑いは感情のひとつなわけでさ。
でも、最近はそういうのを通り越してる。声がでか過ぎ。昔より声がダイレクトに届きやすいのかな。パイ投げとかの「食べ物もったいない」とか、ドッキリとかの「イジメ」みたいな声が大きく伝わりすぎる。過敏すぎるのよね。ややもするとヒステリック。
もちろん一般的な倫理感に逆らう行為であるとか、「ちょっとアレだよね」って声はわかる。それは実に正直な反応で、自然な声。でも、そういう「やっちゃいけない」に逆らうからおもしろいのでねえ。お笑いに常識を持ち込まれても困るわけで。「もったいない」から「ムダにする」のがおもしろいんですよ。その「やっちゃいけない感」が強ければ強いほど、それを破ったときはおもしろい。それが怒りであれ笑いであれ、感情を刺激するってそういうことだから。
だからフジテレビ的にはこういう抗議が多かったということは本来万々歳。抗議が多かったということはお笑い的には正しいんですよ。世間の裏に行ったわけだから。だから自信を持って抗議をはねつけることですよ。「そういう趣旨ですので」と。「お笑いのためにあえてやりました」「お笑いってそういうもんですから」と。ここで引いちゃうとお笑いがおもしろくなくなる。せっかく世間の裏に行ったのに、裏が良くないってなったらお笑いの意味がない。体を張った意味もないし、車を潰した意味もない。
こういう抗議に対する強さがお笑いを守るし、ここではねつけることがおもしろさを生むのではないのかなあと。そう思った次第でありました。単純に見て笑えばいいし、おもしろくなかったら他のチャンネル見ればいいのにねえ。……ま、何事につけそういうところがあるけれど。