(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

他人の自由を否定するものは、自ら自由を受けるに値しない

オレも表現者のはしくれなので、この一連の記事を見て色々考えることがあったわけですよ。

そこでオレが思うところをば。
まず話の前提として、何度も表明しているように、基本的にオレは自由主義者なんです。「ほっといてくれ星人」なんです。オレが何をしようとオレの勝手だし、オレの自由なのでほっといてくれと。これがベース。ただこれだけだとあまりに無責任だし我がままなので、同時に「自分がしでかしたことには、自分が責任持つから」という自己責任と、「オレがほっといてほしいように、みんなもほっといてほしいかもしれんから、みんなもほっとくよ」という自由主義を守ろうという意識もあるわけです。自分が望むように他人に対しても接しましょうと。「他人の自由を否定するものは、自ら自由を受けるに値しない」ってヤツですな。
そんなオレが思うに「あらゆる表現は人の勝手であり、その受け取り方も人の勝手である」のですよ。その表現がお笑いだろうと、演劇だろうと、歌だろうと、文章だろうとね。表現するもしないも自由ならば、そうした表現を見るも見ないも自由であり、どう思おうが自由であり、または思ったことをどういう形であれ外に発しようが自由であると。
同時に表現とは「表現」という文字の如く、内面を表に出す行為であり、それを他人に見せようとすること。である以上は他人に評価を受けることは避けられない運命だと思うわけです。表現をした時点で他人任せにならざるを得ない。良いも悪いも、好きも嫌いも、見る側の受け取り方次第なので、表現者は他人の受け取り方にまでは干渉できないと思うわけです。どっちみち人の脳みそに手突っ込むことなんてできないしね。
そこでこの動画の話になるわけですな。

繰り返しになりますが、わしゃ自由主義者なんで、こういう考え方は否定しまへん。「へえ、そういうお考えですか」ってなもんです。ただ、「つまんなーい」という女の子の発言もひとつの考え方なんですよね。「つまんないと言われてキレる」「つまんないと思う」という両者に上も下もねえんですよ。どっちも個人の自由な考えなわけで。同時に正しいも正しくないもなし。「つまんないと言われてキレる」という感情は品川としては正しい反応なんだろうけども、同時に「つまんない」という意見はその女の子の中では正しいんですよ。だってそう思っちゃったんだから。実に正直な意見じゃないですか。
オレに言わせればどっちも正しいのですよ。ただ表現者としては、なるべく多様な意見がアリな世の中の方が好ましいわけで、そういう意味で「自分で自分の首を絞める」という意見についてはまったくもって同感。色んな表現がOKで、色んな受け取り方をする人間がいるから表現者はメシを食えるわけでねえ。表現方法が限られ、且つ受け取り方が限定されていたら、こんなに多くの表現者が日本で生きていけるわけがないじゃないですか。自由で多様だからいいんですよ。
ついでに言うと、こういう受け取り方の話に受け手のレベルはどうでもいいと思っております。業界関係者だろうが素人だろうが関係なし。他人にさらした以上は、その他人がどんな属性かは選べんのですよ。受け手のレベルを問いたいのならば、表現時に受け手を限定するべきで。
それにその業界のプロしか本質がわからんというのは思い上がりですな。こういう話はあらゆる業界であるんですよ。スポーツなんかだと、実際に選手じゃなきゃわからんとかさあ。でも素人なりにわかることもあるわけです。また素人だからわかることもある。本当に建設的な発想ができる人は、ある意見を発した人の属性より、その意見の内容を問うもんだと思いますがね。特にお笑いは素人にうけなきゃどうしようもないわけで、プロより素人の意見の方が的確な場合が多いと思いますよ。細かな技術面はともかくね。
最後に「お笑いに評論は成立するか」という話ですが、わしゃ可能だと思っちょります。基本的にどんなものに対しても評論は成立すると思うので、お笑いに成立しないわけがないと。ただ「お笑い」という大まかな分野に対しては難しいので、「漫才」「ピン芸」「コント」というように対象を分けることは必要かなと。というのも、評論とは比較であると思うのですよ。過去と比べたり、同時期のものと比べてどうかとか。どういう位置づけ足りうるものなのかとか。であるならば「お笑い」というくくりは大きすぎるんじゃなかろうかと。「明石家さんまダウンタウンではどっちが面白い」という話は、両者が同じ土俵に立っている状態なら可能なわけですよ。でもねえ……違うと思いません? 同じ土俵で比較することに無理がありませんかねえ。
例えるならば、音楽というくくりなんですよ。お笑いって。ジャズとJ−POPを比較してもしょうがねえでしょ。それがお笑いでも言えるのではなかろうかと。落語に評論が成立するのは、複数の人が同じ演目をやったり、あるいは同じ人が繰り返し同じ演目をやるからで、だからこそ「『芝浜』はやはり圓楽だ」とか「襲名後はしぐさに味が出てきた」って評論が成立する。なので、まずはジャンル別の評論を確立させることでしょうな。まずは漫才からですかね。「M−1」という形式があるので、比較しやすいですからねえ。
以上、久々に長文をば。