(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

面白いかどうかは人の勝手

M-1の時期には必ず「○○は面白くねえ」みたいな話がよく出るわけですよ。で、こういう意見は別にいいと思うのであります。だって「面白くねえ」と思ったんだから。それは彼奴の本音であり、本心なのだから、どうぞご自由にという話。あるものを見て、ある人は「面白い」と言い、ある人は「面白くない」と言ったと。まあそれだけの話でありまして、それ以上でも以下でもないなあと。個人の自由な感情表現であります。
ただよくわからんのは「これを面白いと言うヤツはウムコ」と言っちゃうヤツなんだよね。人の感情をクサしにかかるヤツ。これがよくわからん。何でそういうこと言っちゃうんだろうね。「ほっとけよ」であります。
これは単純な話で、あるものを見ての感情は、それがどういう性質であれ同値なのですよ。「面白い」という感情と「面白くない」という感情に差は無い。誰がどう思おうと「そうだね、プロテインだね」であり、どっちが正しいとか正しくないとか、あるいはどっちが良い悪いなんかは言えない。人の感情は人の勝手で、格付けできる類のもんじゃない。
で、常々言うように「他人の自由を否定するものは、自ら自由を受けるに値しない」のであります。「人の感情を否定するものは、自らの感情を表現するに値しない」のです。「ああいうこと言うヤツはウムコ」というヤツは、それを言う自分自身がウンチョスなのであります。
ま、これを意図的にやっているのなら、それはそれでパッション溢れる情熱的な炎上プレイであり、そういう楽しみ方も否定しないわけでありますが、ナチュラリストが増えているのが気になる次第。本当に思い込んでいるテイストが散見されます。「オレの意見正しい=オマエの意見正しくない」的な。実に香ばしいオレ様主義であり、どこまでも上から目線なのであり、純粋にそう思っているのが凄いことであり、純情な感情は空回りであります。SIAM SHADEか。
中でも今回目立つのが大竹まこと叩き。今回ズレズレだったのは確かだし、最終決戦でもひとりキンコンと、選挙用語で言うところの「独自の戦い」を展開してたわけですが、それをもって叩くのはどうかねえ。個人的にはズレていていいんじゃないかと。観点の違う7人の審査員の多数決で決めるというところで、審査の平等性を担保しているわけで、ひとり違うというのは悪いことでもなんでもねえような。人それぞれ笑いのポイントは違うわけだし。またメチャメチャ面白ければ、去年のチュートリアルみたいに7票全部獲っちゃうわけだし。そういうもんじゃないですかねえ。
何と言うか、全般的に「感情の絶対性」を求めすぎですな。白黒つけたがりすぎというか。面白い・面白くないの区別をつけたがりすぎ。ところが実際は笑いの感情は非常に曖昧なもので、同じものを見ても笑える人・笑えない人、あるいは同じ人でも笑えるときと笑えないときがある。数量的に評価できるもんじゃないので、もっと適当でよろしいかと思いますよ。不真面目に気楽に楽しめばいいじゃないですかねえ。「笑いに真面目すぎてケンカになってる」というのが最も笑えない展開と思いますが、如何ですか?(それはそれで野次馬としては面白いときもあるけれど)